Funeral de
emargencia

仏教についての小さなお話

阿弥陀仏の無限の記憶:私たちの存在が消えることのない場所


阿弥陀仏の無限の記憶:私たちの存在が消えることのない場所

みなさんこんにちは。私たちの仏さまは、私たちのすべてを、いつまでも忘れずに抱きしめてくださる「大きな記憶」そのものです。人は、どうやって自分の居場所を感じるのでしょうか。それは、誰かの記憶に残って、誰かに覚えてもらうことで、そこに自分の居場所を感じるのです。

しかし、私たちはすべての人から、いつか忘れ去られていきます。また、この世界から人間の姿が消える日が来るかもしれません。自分たちが生きた証さえも、消えてしまうのではないか。そんな心細さを、私たちはどこかに抱えて生きています。しかし、仏さまの記憶は決して消えることがありません。私たちが忘れ去られても、仏さまは決して忘れません。

仏さまは、私たちが実際に歩んできた人生だけではなく、「あの時こうしていれば」という後悔や、選びたかったけれど選べなかった道、もしそうなっていたら出会えたはずの喜びまで、そのすべてをまるごと知ってくださっています。生まれることができなかった命の成長した姿や、若くして失われた命が、もし長生きできていたら。そんな、今の私たちが触れることのできない幸せな記憶まで、仏さまはわかってくださっています。

私たちの喜びも、苦しみも、そして果たせなかった願いさえも、すべては仏さまの心の中に永遠に生き続けます。その仏さまの記憶の中に、私たちの存在のすべてが抱かれている。その安心の世界こそが、私たちが最後に行く「お浄土」という場所なのです。

今日、私たちは先立たれた方々を偲ぶために集まりました。私たちも故人の方々も、いつかは長い歴史の果てに、忘れ去られてしまう存在です。しかし、仏さまの心の中では、あの方の笑顔も、共に過ごした時間も、あの方が歩みたかった未来も、すべてが今も大切に守られています。私たちは、自分から救いを求めて手を伸ばすよりずっと前から、すべてを忘れずにいてくださる仏さまの大きな慈悲の中に、既に抱かれているのです。ありがとうございました。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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報恩講:祖先、未来、そして仏の現存を結ぶ出会い


報恩講:祖先、未来、そして仏の現存を結ぶ出会い

今日は、浄土真宗で一番大事な報恩講で、宗祖の親鸞聖人や、私たちの大切なご先祖様のお勤めをしました。報恩講というのは、「感謝する人たちが集まる」という意味の名前です。皆さん、「お寺にお参りするって、いったい何の意味があるんだろう?」と、不安に思うことがあるでしょう。今日は、皆さんのその行動が、これから先の未来の世界にとって、どれほど大きな意味を持つのかをお話しします。

まず、報恩講の始まり、親鸞聖人が何をしたかを少し見てみましょう。聖人が宗派を興し、代々の住職たちが法事の形を整えた行為は、「どんな人でも必ず救われる仕組みを、ずっと未来まで残そう」という、深い思いやりでした。報恩講というのは、浄土真宗での「法事」の始まりであり、親鸞聖人が未来の世界の全ての人に「大丈夫ですよ」という安心を届けようとした、大きな思いやりなんですね。

私たちの仏様である阿弥陀仏は、世界で初めて、自分のためではなく、他の人の往生だけを願われた仏様です。その阿弥陀仏の力というのは、「人々を結び付ける、尊い見えない力」そのものです。お寺の行事で、皆さんに助け合いの思いが生まれるのも、仏様の慈悲のあらわれで、慈悲のこころはすでに私たちの周りに満ち溢れています。親鸞聖人は、この阿弥陀仏の思いを、「おしえ」という具体的な形で世の中に伝えてくれた人です。ですから、報恩というのは、法事を通して、阿弥陀仏の大きな慈悲に触れることなんです。

では、この報恩の行動と、亡き人を思う気持ちが、どう繋がっていくのでしょうか。ここで、「私という存在」について、少し考えてみましょう。「今、ここにいる私」というのは、「もうこの世にはいないご先祖様」と、「まだ生まれない未来の命」という、どちらも今、目には見えない人たちが、この瞬間に同時に存在できる、特別な場所なんんですね。

親鸞聖人が私たち「後の世界に生きるもの」に「南無阿弥陀仏と称えなさい」と残してくれた真の意味は、「自分さえ救われればいい」というだけではありません。皆さんが今日、お参りするその姿は、亡きご先祖様から未来の子孫まで、全ての人々の「安心」となることを意味しています。全てはばらばらではなく繋がっています。皆さんの参拝は、亡き人だけでなく、未来の世界の全ての人を救うことにつながるとても尊い行為です。仏さまとは私の周りにいるすべてのものひとつながりの大切なものだと思う人に見えてくる存在なのです。皆さんの参拝は、素晴らしいことであり、亡き人だけでなく、まだ見ぬ次の世代すべてが「仏様」としてつながっていることを教えてくれた親鸞聖人への、大きな感謝の気持ちとなるのです。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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無常の中で灯される法の命


無常の中で灯される法の命

この度、永代経法要へようこそお参りくださいました。私たちは今日、亡き方を偲び、永遠に伝えられる仏さまの教えに手を合わせます。永代経とは、仏の教えが、これからもずっと私たちを照らしてくださることに感謝する大切な法要です。私たちは、故人との別れを通して、この命が永遠ではないという事を教わります。この世のすべては常に変わり続け、そのままということはありません。すべてが変わっていくという事が、私たちの生きる世界そのものの姿なのです。この世に永遠の命はない、つまり、いつかは皆が死という終わりを迎えるのです。

だからこそ、私たちはこの仮初の「今」という瞬間に、愛おしさを感じ、執着します。そして、この胸にある大切な人を思う心が、死によってどこへ行ってしまうのかという不安を感じます。ですが、その執着や不安さえも、いずれは阿弥陀仏の光によって救い取られ、大いなる安心な世界はあるのです。

多くの宗教では、神様からの恵みに対して、人々は一番大切な捧げものをもって感謝の気持ちを表します。これに対し、私たち仏教徒、特に永代経の場では少し違う受け止め方をいたします。私たちはこの世を去っていかれた大切な方々を、すでに仏さまとなられた方として心に受け止めます。この仏さまが私たちに遺してくださった一番の贈りものとは、ご一緒に生きたかけがえのない時間そのものだと考えるのです。そして私たちは、亡くなった後もその方との温かい思い出や教え、共にあった時間を何よりも大切に覚えています。この私たちの記憶という仮の命の中で、その方の存在を絶えず支え続け、語り継いでいくことこそが、故人への最大の敬意と心からの感謝の表れとなるのです。

永代経とはその字の通り、命が尽きた後も、故人を偲ぶ人々の温かい思いが永遠にこの世に残り続けるということを意味します。そしてその思いは、命から命へと引き継がれるリレーのように、次の世代、さらに未来へと大切に届けられる、命のつながりそのものに対する感謝の行事なのです。この慈悲の心から、永代にわたる法の灯を消すことなく、感謝をもって円満に続けていくことは何よりも尊い大事なことです。「私はこの命を大切に生きています。」この思いが、ここにいる皆様の心と一緒に響き合うことを願います。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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私たちは一体何者なのか?


私たちは一体何者なのか?

「私」とは、一体何なのでしょうか。嬉しいときも、悲しいときも、心は全く異なるのに、それでも「私」はいつもここにあります。私たちの心は、様々な思いがさざ波を立てる湖のようであり、時には荒れ狂う大海原のようです。その水面が静かに広がる空間が、あなたの内なる存在を表します。この空間は、この世にもういない先祖と、まだこの世に生まれていない子孫という、決して同時に存在しない二つの存在によって満たされます。彼らがあなたという空間で出会うことで、あなたの存在の内面の大きさと意味が決まってくるのです。

先祖から受け継がれ、子孫へと引き継がれる、途切れることのない命の連鎖。この「今」という瞬間、あなたという存在の中で、過去と未来がひとつの線となり、確かにつながっています。人生で感じる孤独や喪失感は、その「つながり」が途切れたと感じることから生まれます。しかし、それは心の弱さが感じさせる錯覚に過ぎません。

次に外側から見ると、あなたの存在は、周りの人々によって形作られています。仏教では、数珠という道具を大切にします。数珠には、周りの珠があって初めて穴ができます。この個性豊かな「穴」こそが、私たち一人ひとりなのです。どんな大きさの珠が、いくつ連なっているかで、あなたという穴の大きさが決まります。周りにいてくださる人々によって、今の私たちは形作られているのです。

しかし、周りの珠は日々入れ替わります。愛しい人達は亡くなりますが、新しい出会いもやってきます。その時、失われた珠は、それっきりなのでしょうか。私たちが本当に向き合うべきは、「失われた」という悲しみの奥に、実は「失われていないもの」があるという事実なのです。それは、あなたを愛してくれた人の心であり、その人との間に育まれた温かい記憶です。その愛は、たとえ相手の姿が見えなくなっても、決して消えることはありません。

仏様は、その愛が慈悲という力となって、あなたの心に宿っていることを私たちに教えてくれます。喪失という悲しみは、この慈悲の力に気づくための、大切なきっかけだったのです。私たちは、この慈悲を自分のものとして、周囲の人々へと広げていくことができます。失われたものへの悲しみを抱えながらも、それを感謝と優しさへと変えていく。これこそが、人の人生を再び満たされたものへと変える道です。私たちは、一人で立つのではなく、つながりの中で生きる存在です。そして、そのつながりこそが、充失感から私たちを救い、人生を豊かにする智慧なのです。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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心の合図


心の合図

皆様、当山の法要にようこそお参りいただきました。本堂を見渡してみてください。今年もこんなにたくさんの提灯が集まりました。この提灯は、皆様のご協力の心の証です。しかし、ここにはもう一つの大切な意味があります。今日の法要では、そこに少しですがご一緒に触れてまいりましょう。

私たちは誰もが心にぽっかりと穴を抱えて生きています。子供なら無邪気に泣き叫びます。しかし、大人になるとその悲しみや喪失感を心にしまい込み、無理にかっこつけてしまいます。しかし、抑え込んだ痛みはいつかあふれ出し、心の壁を決壊させてしまうかもしれません。お寺は、その痛みを安心して癒す場所です。

「私はあなたを思っています。どうかこちらを見てください」そう思う気持ちは、きっと誰にでもあるでしょう。私たちは必死に亡き人に思いを届けようとします。しかし「見ているよ」という声は、どんなに耳をすましても届きません。聞こえない声になんとか耳を傾けようと、昔の人たちが心を込めて作ったのが、提灯でした。提灯は、亡き人に「こっちだよ!」と手を振る、私たちからの精一杯の合図なのです。

「なぜ今さら、古めかしい提灯文化を?」と思われるかもしれません。しかし、この伝統は何百年もの間、絶やすことなく続けてきた、ご先祖様を想う温かい心の証です。世が乱れようとも、遠い異国に住む場所が変わろうとも、私たちはこの伝統を大切に守り続けてきました。この提灯は、ただの飾りではありません。それは、ご先祖様との温かい心のつながりを次へとつないでいく、大切な心の架け橋なのです。

もしかすると、このような話はこれまでに聞いたことがないかもしれません。しかし、私は浄土真宗の教えを深く見つめ、皆様の心に寄り添うなかの中で、このように確信しています。私は、お参りされた皆様に安心して安らかな心を得てほしい。そして、私自身その責任を負って、皆さんと共にこの道を歩んでいきたいと願っています。社会では、亡き人と心の中で出会ったとは言いにくい時代になりました。しかし、おてら寺ではそう言っていいのです。今日ここにつど集っている人たちも皆が口には出さなくとも、同じ思いでこの場に来ています。どうぞ安心して、一番大切な人と心の中で出会ってください。

皆様からの尊いご懇志は、この大切なおしえを次の世代へつなぐかたちとして提灯に託されました。仏さまは、このお参りの心を決して見捨てません。私たちの心の中に、ご先祖様とのつながり、 shadow そして阿弥陀さまの慈悲がある限り、私たちは安らかな日々を送ることができるのです。この大切な出会いに感謝しましょう。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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阿弥陀仏の慈悲の光と浄土での再会


阿弥陀仏の慈悲の光と浄土での再会

本日、私たちは阿弥陀様の御前で寺礎移転記念法要を執り行います。この地へ移転してもう9年がたちます。これは、私たち皆にとって大切な「出会いの場」が続いていることを意味します。手を合わせる合掌の姿勢は、単なる習慣ではありません。それは、私たちの心を開き、温かい慈悲の光を受け入れることを意味します。そして、この光の中で、旅立たれた大切な方々を心から偲び、感謝を捧げます。

私たちの浄土真宗の教えには、心が軽くなる素晴らしい真理があります。それは、「私たちは自分の頑張りや、どれだけ良い人であるかによって救われるのではない」ということです。私たちは皆、悩みや不安、失敗を抱える不完全な存在、「凡夫(ぼんぶ)」です。それでも、阿弥陀様の限りない慈悲の光は、そんな私たち一人ひとりに、何の見返りも求めずに降り注いでいます。阿弥陀様が私たちに誓われた本願(お約束)は、「どんな人も決して見捨てない」という、揺るぎないものです。

私たちが「なんまんだぶ」と念仏を称えるとき、それは何かをお願いしたり、徳を積もうとしたりしているのではありません。この念仏は、阿弥陀様の深い慈悲が、私たちを通して声になったものなのです。それは、ありのままの私たちを、ただただ受け入れ、包み込んでくださる阿弥陀様への、心からの「ありがとう」という感謝の響きです。

旅立たれた皆さんは、遠いどこかへ行ってしまったわけではありません。すでに、すべての苦しみから解放され、仏様となられた光り輝く「浄土」という世界に往生されています。そこから、安らかに過ごされるだけでなく、その豊かな智慧と穏やかさで私たちをいつも見守り、導いてくださっています。そして、私たちもこの世の役目を終えたときには、必ず同じ浄土へと迎えられるのです。

だからこそ、この法事悲しいお別れの儀式ではありません。阿弥陀様の光の中で、故人との喜びの再会を祝う場なのです。私たちを結びつける絆は、阿弥陀様の慈悲によって織りなされており、生と死を超えたものだと教えてくれます。阿弥陀様の本願に心からお任せする深い安らぎと、大きな感謝の気持ちをもって、これからの日々を歩んでいきましょう。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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浄土真宗の精神:ブラジルの大地における愛、つながり、そして希望


浄土真宗の精神:ブラジルの大地における愛、つながり、そして希望

いつもご清聴いただきありがとうございます。この浄土真宗の話には一貫して、私たちの生き方に関するメッセージがあります。本日は、日本からの第一期移民船が到着し、このブラジルで浄土真宗の活動が始まった記念すべき日ということで、今日はその教えの核心をお話しします。

まず最も大切なのは、阿弥陀様の広大で深い慈悲の心です。阿弥陀様はすべての人を分け隔てなく救い、お浄土へと導いてくださいます。命を終えた後も一人になることなく、阿弥陀様の元へ迎えられるという希望が説かれています。この救いは自力ではなく、阿弥陀様の力(他力)によるものであり、お念仏「ナンマンダブ」を称えることは、その慈悲を受け入れ、仏様との繋がりを感じる行いです。

次に、故人との繋がりを大切にすることです。お盆などの行事で故人を偲び感謝を捧げることは、単に悲しむのではなく、いただいた愛情や教えを再確認し、生きる力とします。故人の思い出や生き様は、私たちの心で生き続け、次世代へと受け継がれています。

また、人生のはかなさ(無常)と、万物が互いに繋がっているという仏教の基本思想も背景にあります。出会いと別れを繰り返す変化の中で、他者との関わりや生命の繋がりの尊さを理解することが大切です。

正式には何より、他者を思いやる「慈悲」の心です。他者の喜びを共に喜び、その悲しみに寄り添う心は仏様の心に通じます。自分の幸せだけでなく、他者のために行動することの中に、本当の喜びがあると説かれています。日々の生活では、自らの行いを省み、周囲に感謝し、誠実に生きること。これらすべてが、阿弥陀様の救いを確信し、お念仏と共に生きる道を示しています。この澄み切った確信こそが、人生の苦しみの中で、確かな希望と心の安らぎを与えてくれるのです。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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私たちをつなぐ命:思い出、家族、そして感謝


私たちをつなぐ命:思い出、家族、そして感謝

皆さま、ようこそお参りくださいました。本日は宗祖・親鸞聖人のご誕生を祝う「宗祖降誕会」です。五月は、位牌に込められた思いのように、亡き方を偲ぶ月ですね。親鸞聖人は、阿弥陀さまが全ての人を必ず救うという、広大なお慈悲を伝えられました。このお慈悲は時を超え、遍く注がれています。今日は「いのちの繋がり」を考えましょう。人の存在が本当に消えるのはいつでしょう。肉体の死でなく、記憶する人が誰もいなくなり、忘れられた時です。では、存在はいつ始まるのでしょう。生まれた時でなく、もっと前、周りが誕生を心待ちにし、幸せを願う、その温かい「思い」の中に、存在は始まっています。忘れられた時に終わり、願われた時に始まるのです。

私たちの「いのち」は時を超えて広がっています。「今」を生きる私という存在を中心にご先祖と子孫が同時に存在するのです。この過去から未来へ続く「いのち」の繋がり、特に亡き方の記憶を繋ぐ中心が家族です。位牌を手に集うことは、故人への愛情と「忘れない」という誓いの証。名を位牌に記し、日々偲びます。家族であの方の思い出や教えを語り継ぐことは、尊い心の財産を次世代へ手渡すことです。この「偲ぶ」思いを日々続けることは、毎日を丁寧に、誠実に生きることに繋がります。

その継続の大切さは、かつて日本から渡られた一世の方々の姿にも見られます。困難の中、彼らは地道な努力を続け、生活の基盤を築きました。その日々の「継続」が、これからの発展の礎なのです。私たちの中には、先人の血を受け継ぐ方、日本文化に心を寄せる方がいます。先人が示した真面目さ、誠実さ、思いやり、感謝の心。これらは古い習慣ではなく、良く生きるための、国や文化を超えた大切な「根っこ」です。この根っこを自覚し、日々の暮らしで誠実に、丁寧に、感謝を忘れずに生きること。その地道な継続が街を豊かにし、人生を輝かせます。端、私たちが前を向いて生きる姿こそ、亡き方への最高の報恩感謝となり、安心を届けられるでしょう。

親鸞聖人は、私たちは阿弥陀さまに必ず救われると示されました。阿弥陀さまの慈悲の光は、亡き方にも、今を生きる私たちにも、未来の子供たちへも、平等に注がれています。亡き人を心に刻み、家系の繋がりに感謝し、未来へ向けて日々を大切に歩む。この営みの中に、阿弥陀さまの願いに適う生き方があります。「南無阿弥陀仏」と称える時、私たちは亡き人や阿弥陀さまとの繋がりを感じ、感謝で満たされます。どうか今日のご縁を胸に、亡き人を偲ぶ心と、日々を誠実に生きる決意を持ち続けてください。その継続が私たちを支え、この地をより良くしていく力となるでしょう。本日はようこそのお参りでした。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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人生はさよならの連続である


人生はさよならの連続である

皆さま、本日はようこそお参りくださいました。私たちは、毎日たくさんの「さようなら」を経験していますね。朝、家を出る時の「行ってきます」、友人との別れ際の「またね」。小さなものから、心に残るものまで、別れは私たちの日常に溢れています。そして、時として、二度と会えないかもしれないという、深い悲しみを伴う別れも経験します。そんな別れの後、私たちの心には、ぽっかりと穴が開いたような寂しさが広がります。それは、私たちが誰かと真剣に向き合い、共に過ごした温かい時間があったからこそ感じるものなのだと思います。今日、皆さまとご一緒に、この「別れ」というものについて、もう少しだけ深く考えてみませんか。

私たちの周りを見渡すと、何もかもが常に変化していることに気づきます。春に咲き誇った桜も、やがては散り、新しい緑の葉が生い茂ります。私たちが出会った人も、同じように、いつかは別れの時を迎えます。これは、私たち人間だけでなく、この世界に存在するすべてのものに共通する、抗うことのできない自然の流れなのでしょう。

大切な人との突然の別れは、私たちに言葉にできないほどの深い悲しみをもたらします。しかし、どうか心に留めてください。その悲しみは、私たちがその人との出会いを、どれほど大切に思っていたかの証なのです。まるで、美しい音楽を聴いた後に、その旋律が心に深く残るように、共に過ごした喜びや分かち合った温かい気持ちは、悲しみというフィルターを通して、より鮮明に、そしてかけがえのない思い出として、私たちの心に刻まれるのではないでしょうか。

去っていくことは、終わりではありません。姿は見えなくなっても、その人との心の繋がりは、まるで夜空に輝く星のように、私たちの心の中で永遠に生き続けます。そして、私たちが故人をどのように思い、語り継いでいくかによって、その人の人生は、私たちの心の中で、いつまでも色褪せることなく輝き続けるのだと確信しています。

愛する人を失い、心が深く痛む時、私たちは無理に悲しみを振り払おうとするのではなく、その感情にそっと寄り添い、時間をかけて受け入れていくことが大切です。そして、共に過ごした温かい日方に感謝の気持ちを捧げましょう。悲しみは、私たちが愛を知り、人との繋がりを大切にする心を教えてくれる、かけがえのない感情なのです。感謝の気持ちと共に故人を偲ぶことこそが、私たちに残された者の大切な務めであり、故人の人生を、私たちの心の中で永遠に輝かせる力となるでしょう。今日、この場所で共に手を合わせ、静かに故人を偲ぶひとときが、皆さまの心に、温かい光を灯すことを願っています。この杯を受けてくれ。どうぞなみなみつがしておくれ。花に嵐のたとえもあるぞ。さよならだけが人生だ

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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遥かなる大地からの響き、命の歌


遥かなる大地からの響き、命の歌

鹿たちが集う静かな森のなかで、遥か昔に起こった出来事をお話ししましょう。かつて、緑豊かなインドの森のなかに、自然と鹿たちが寄り添う美しい場所がありました。ある日、一本の樹の木陰で深い瞑想を重ねていた若者が、世界の真実(み教え)へと目覚めました。彼はそこへ集まっていた鹿たちに、まるで優しく語りかけるように、その世界の真実についてお話を始めたのです。人々はのちに、この美しい出来事を「初転法輪(最初のお説法)」と呼びました。

なぜ、最初のお説法の場に鹿たちがいたのでしょうか。古代のインドにおいて、鹿はとても特別な存在でした。力強く時に権力の象徴とされる象とは異なり、鹿は静寂、美しさ、そして自然そのものの清らかさを表していたのです。昔の人々は、鹿の姿のなかに自然との調和や、穏やかで平和なこころのあり方を見出していたのかもしれません。

目覚めた若者は、世界についてこのように語りかけました。
・「すべてのものは、それ単体で存在しているのではなく、互いに関係し合って存在しているのだ」
・「すべてのものは移り変わり、いつまでも同じ姿で留まるものは何一つない」
私たちが目にしている世界は、常に形を変えて流れる川の水のようであり、すべての命が互いに影響を与え合い、固く結ばれているのです。

真実そのものとなった仏様(如来)の本質とは、まさにこの「無常」と「つながり」の性質そのものにあります。寄せる波、吹き抜ける風、森の鹿たち、そして私たち人間も、すべてはこの大きな命の流れのなかで生まれ、やがて消え去っていく尊い現象なのです。

それでは、「み教えを聞く」とは、一体どういうことなのでしょうか。それは、ただ頭で言葉を理解することではありません。すべてのものは移り変わり、互いにつながり合い、永遠に留まるものはないという世界の真実にこころを開き、それを静かに感じ、日々の暮らしのなかで歩んでいくことなのです。自然のなかで生きる鹿や動物たちは、ある意味では、すでにこの真実のなかに自然に溶け込んで生きています。一方で、私たち人間は、自らの欲望や執着にとらわれ、そのつながりから離れてしまいがちです。だからこそ、人間の形をしていても、私たちのこころはどこか満たされず、彷徨ってしまうのかもしれません。

この真実へと目覚めた若者も、私たちと同じ一人の人間でした。お腹が空けば食事をし、疲れれば横になって休み、時には人間らしい感情を見せることもありました。しかし、そのすべてが、ありのままの人間としての自然な姿だったのです。彼は、偏りのない「中道」の歩みを大切にされました。ありのままに生きていく日々のなかにこそ、真実があるのです。それはまさに、鹿たちが自然のなかでその本能に従って、ありのままに生きている姿と重なります。

この若者が語り、そこから生まれた生き方こそが、人々がのちに「Dharma(仏法)」と呼ぶものとなりました。この若者こそが、のちに仏教の開祖となる、お釈迦様(ゴータマ・シッダールタ)です。仏法とは、人間だけでなく、すべての生きとし生けるものに等しく開かれたお教えです。人間中心の狭い世界観を超えて、大自然全体の響きを言葉に表した、深い生命の哲学なのです。この小さなお話が、皆様のこころに新たな風を吹き込む最初の一歩となりますように。そして、遥か昔に鹿たちが聞いたお釈迦様の一番最初の歌が、時空を超えて、今を生きる皆様の胸の奥深くにも温かく響き渡りますよう、こころより念じております。なんまんだぶ。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

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魂の鏡


魂の鏡

あなたは一体どんな人ですか?その答えは、鏡をそっと覗き込めばすぐにわかります。なぜなら、人間の内面にあるすべては、その表情のなかにありのままに映し出されているからです。同じように、私たちの身体に現れる日々の自覚症状はこれまでの生活習慣の積み重ねを静かに表し、ふとした意図しない仕草のなかに、その人のこころのゆとりや有り様が見えてくるものです。

今、幸福を感じて人生を歩んでいる人は、日々の挨拶や交わす笑顔のなかに、本当に素晴らしい輝きを湛えた表情が出ます。その反面、こころが不幸に囚われてしまっている人は、元気な挨拶を交わすことも、内面から輝くような笑顔を浮かべることも、どうしても難しくなってしまうものなのです。私たちは決して人を見た目だけで判断してはいけませんが、その人の外見や佇まいから読み取れる内面の情報というものは、決して侮ることはできません。見た目が周囲に与える、そして自分自身に与える影響というものは、本当に途つもなく大きいのです。

古くから賢者(さとりを開いた方々)と言われる人たちは、そのように表に現れている部分から、目には見えない人間の深い内面や本質を、鋭く見通してきた人たちのことでした。もし、自分の姿が他人に影響を与えるのだとしたら、それと同じくらい、自分の姿は「自分自身のこころ」にも大きな影響を与えているのです。もし自信を失いそうになったなら、まずはすっと姿勢を正してみましょう。気持ちが深く落ち込んでしまったときこそ、鏡に向かってそっと笑ってみてください。幸せになりたければ、まず自分から明るく挨拶を交わしてみるのです。たとえ最初は嘘や形だけでも構いませんから、まずは笑顔を浮かべてみましょう。

それによって、あなたが今抱えている問題がすぐに解決するわけではないかもしれません。しかし、あなたのその健気な笑顔によって、周りにいる誰かの重苦しいこころが、ふっと救われるかもしれないのです。自分の幸せをただ追い求めるのではなく、時にそれを横に置いてでも、他人に笑顔や幸せを分かち合える人になることは、決して無駄なことでも、損をすることでもありません。自分だけが損をしているなどとは、どうか思わないでくださいね。古い言葉に「誰も見ていなくても、誰かが必ず見ていてくれている」という真実があります。それは、地域や文化によって「神様」と呼ばれたり、あるいは「仏様」と呼ばれたりしてきました。また、それを大自然の太陽になぞらえて、世界を等しく明るく照らす太陽に深く感謝を捧げた人々もいます。本当のところは、誰にも形としては見えないのかもしれませんが、私たち浄土真宗の伝統では、その大いなる存在を「仏様(阿弥陀如来)」とお呼びするのです。世のため人のために、どんな時も笑顔を絶やさずに生きようとするあなたの姿を、常に真正面からしっかりと見つめ、優しく褒め称えてくださる存在こそが、仏様なのです。

私たちは誰もが、常に幸せでありたいと願っています。しかし、人生のなかで常に幸せな状態のままで居続けることは、非常に難しいことです。なぜなら、この世のすべては常に移り変わり、変化し続けている(諸行無常)からです。ですから、自分の幸せに執着する代わりに、ただ周りにいるすべての人々の幸せを純粋に願い続けましょう。すべての人がそのように他者を想うこころを持てたとき、それは巡り巡って、世界中のすべての人が「あなたの幸せ」を心から願ってくれることと同じ意味になるのです。仏教では、この自他を超えた大いなる慈しみを「慈悲のこころ」と呼びます。そしてこれこそが、仏様のこころのすべてなのです。今日、この場所に集まられた皆様の多くは、先立っていかれた大切なご家族のお浄土での幸せを願い、祈りを捧げに来られたことと思います。どうか、その愛する人を想う尊いお気持ちを通して、仏様の温かな慈悲のみこころをその身にそっと授かっていただきたいと切に願っております。なんまんだぶ。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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暗闇の中の光


暗闇の中の光

皆様、本日はお寺へようこそお参りくださいました。そろそろ厳しかった暑い夏も終わりを告げ、爽やかな秋の訪れを肌で感じる時期になりますね。それと同時に、季節の変わり目は体調を崩しやすい時期でもあります。どうか皆様、お体にはくれぐれもお気を付けいただきながら、日々を健やかにお過ごしくださいね。

今日は、私たち人間のこころのなかに常に背中合わせで存在する、二つの価値観についてお話ししたいと思います。「善と悪」や「プラスとマイナス」といった、まったく正反対にあるもののことです。私たちは人生のなかで、時に深い闇に迷い込んでしまうことがあります。けれど、その暗闇を経験するからこそ、そこに差し込んでくる一筋の光の輝きを、より一層美しく、尊いものとして感じられるのではないでしょうか。これは、私たちが日々の暮らしのなかで、思いがけない苦しみや悲しみを経験するからこそ、そこにある小さな喜びや幸せの有り難みを、より深く、命に染みるように感じることができる、という真実を表しているのだと思います。

自分が深く愛する人を失うという、言葉にならないほどの大きな悲しみを知るからこそ、今、自分のすぐそばにいてくれる人の温かさや、ともに過ごせる時間のあまりの大切さが、本当にこころに染み渡るのです。時に、絶望の淵に立たされている私たちにとって、「幸せ」という言葉は、世界で最も遠く離れた場所にあるように感じられるかもしれません。しかし、そんな時であっても、この世界は本当に広く、目に見えないたくさんの温かなものが、私たちの存在を優しく包み込んでくれています。自分がもう一歩も動けないほどの絶望のなかにいると感じる時こそ、実はこの世界はそれほどまでに広く、そして私たちの思いを超えた多くの可能性(仏様の救い)をその内に秘めているのだと、静かに教えてくれているのではないでしょうか。

私たちは、毎日の生活のなかで、実に多くのことを見聞きし、学んでいます。しかし、目の前にある文字をただなぞって読めたとしても、その言葉の奥にある「本当の意味(真意)」を正しく理解しているとは限らないのと同じように、この世界の真実は、いつも私たちの目の前で、すべての答えを教えてくれているのです。それなのに、私たち人間の側の目が、それを見ようとしていないだけなのかもしれません。私たちはどうしても、自分自身の狭い価値観や、凝り固まった思い込みにとらわれてしまい、目の前にある本当の真実を見誤ってしまうことがあります。本当の答えは、すでに自分の視界のなかにきれいに収まっているのに、ただそこに注目し、こころを向けていないだけなのです。

仏様のみ教えは、そのような迷いのなかにいる私たちに対して、真実のあり方を見つめるための大切な「気づき(智慧)」を与えてくれます。仏の教えとは、決してどこか遠くにある特別なものではありません。いつも私たちのすぐそばに寄り添い、暗闇のなかで足元を静かに導いてくれているものなのです。どうか、強がっているこころをそっと開いて、ご自身の周りをありのままに見渡してみてください。きっと、今までは気づかずに通り過ぎていた、温かな光がはっきりと見えてくるはずです。そして、その仏様の慈悲の光は、傷ついた私たちを丸ごと温かく包み込み、これから歩んでいくべき確かな道を、いつも優しく示してくださるでしょう。本日も皆様とともに、仏様の尊い教えの一端に触れることができました。この尊いご縁に、こころより感謝申し上げます。なんまんだぶ。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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命を祝い、記憶を育む


命を祝い、記憶を育む

皆さんこんにちは。本日、共に大切な故人を偲ぶひとときを過ごせることに、心より感謝いたします。今月の命日の法要に際し、お寺のウェブサイトに掲載されている物故者の方々のお名前を拝見いたしました。170名もの方々のお名前が並んでおり、改めて、この一月というひと月のなかでも、本当に多くの方が人生の幕を閉じられたのだと深く実感いたしました。もちろん、ここに記されているのは、この世界で還っていかれた尊い命のほんの一部にすぎません。どれほど多くの方々の大切な人生の物語が、この世界に満ちていたことでしょうか。

人は、いつか必ずこの世を去ります。それは、私たちにとって、時に大きな悲しみであり、避けることのできない恐れでもあります。しかし、死は決してすべてが虚無に帰る終わりではありません。その人がこの世に確かに存在したという事実、共に笑い、共に過ごしたかけがえのない時間、交わした言葉、 Redmond そして、その人から受けた温かい心は、決して消えることなく、私たちの心の中にいつまでも生き続けていくのではないでしょうか。

歴史に名を刻む偉人たちの物語に、私たちは深く心惹かれます。それは、彼らが成し遂げた特別な偉業だけでなく、「誰からも忘れ去られたくない」という、私たち人間が抱く普遍的な願いの表れなのかもしれません。「どうすれば、私は忘れられないだろうか?」そう考えた時、私たちはつい、周りの人に向かって「私のことを覚えていてほしい」と求めたくなるかもしれません。しかし、それはどこか人間のエゴ、つまり自分の都合にすぎないのかもしれませんね。

ここで本当に大切なのは、自分自身のことばかりを考えてすがるのではなく、今、自分の周りにいてくれる一人ひとりの存在を大切にし、先立っていかれた方々の尊い記憶を未来へと繋いでいくことではないでしょうか。優しい眼差し、温かい励ましの言葉、心に残る懐かしい笑顔…私たち一人ひとりが、周りの人たちの些細な言動のなかに、かけがえのない輝きを見出し、大切に心に刻んでいく。そうして思いやりの心を重ねることで、人々の豊かな記憶は、世代を超えて、美しい未来へと受け継がれていくのです。

長い人類の歴史の中で、人々の心を支え、導くために様々な宗教が生まれてきました。そのなかには、「願い事をすれば、あなたの欲しいものが必ず叶う」と現世の利益を説くものもあるかもしれません。しかし、私たち浄土真宗のみ教えでは、何かの見返りを求める心ではなく、ただ静かに寄り添い、誰かのために尽くしていく思いやりの心を何より大切にしています。今日、皆様は、大切な方の思い出をお胸に、この場所に集まってくださいました。それは、故人を偲び、出逢えたご縁に心から感謝するためであると同時に、「誰かのためになにかをしたい」という、皆様の温かい心の表れにほかなりません。人のために何かをする、その純粋な歩みが、巡り巡って、ご自身のこころを静かに満たし、豊かにしていく。その尊い仕組みを、最も分かりやすく示してくれているのが、この追悼の場なのかもしれません。

故人との思い出は、時の流れとともに、少しずつ形を変えていくでしょう。しかし、それが私たちのなかから決して消え去ることはありません。どうぞ、その温かい思い出をしっかりと胸に抱き、今ある周りの人々を大切にしながら、共に助け合い、励まし合って、未来に向かって一歩ずつ歩んでまいりましょう。仏教における葬儀や法事という勝縁は、単なる儀式ではなく、私たち自身が今どのように生きているかを見つめ直す大切な機会を与えてくれます。この法要が、皆様にとって、往かれた方を優しく偲ぶだけでなく、ご自身の人生を静かに振り返り、明日への確かな希望を見出すための、大切な時間となりますよう心より願っております。なんまんだぶ。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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