Funeral de
emargencia

仏教についての小さなお話

あなたの心を満たすものは何ですか?


あなたの心を満たすものは何ですか?

皆さんこんにちは。本日もようこそお参りくださいました。それでは今日の話を始めます。あなたはどこから来ましたか?これは仏教の根本的な問いにも繋がります。仏教では、私たちは無から来て、無へ還ると説きます。

宇宙では何百億年という気の遠くなるような時間の中で、様々なものが誕生しては消えていきました。私たち人間のたった数十年の生涯は、広大な宇宙の時間スケールから見れば、一瞬でしかありません。しかし、その一瞬の命の輝きの中に喜びや悲しみで心を満たしかけがえのない時間を送るのです。その中で、すべての人は一日24時間という時間を平等に与えられます。それをどのように使うかは、私たちの自由なのです。あなたなら、どのように使いますか?

こんな例え話があります。ある大学の講義で、教授が学生たちを前に話を始めました。教授は机の上に大きな瓶と、ゴルフボールがたくさん入った袋を置き瓶の中に、袋からボールを入れていきました。瓶の口までボールで一杯になったところで、教授は質問しました。「この瓶はもう満杯ですか?」学生たちは皆、「はい、満杯です」と答えました。

教授は次に、小石がたくさん入った袋を取り出し、その中身を瓶に注ぎ始めました。ボールの隙間に、小石がどんどん入っていきます。かなりの量の小石が入り、もう入らないと思われたところで、教授は再び質問しました。「では、これでこの瓶は満杯になりましたか?」学生たちは、先ほどの経験から少し考えた後、「はい、今度こそ満杯だと思います」と答えました。

しかし教授は、さらに砂がたくさん入った袋を取り出し、その中身を瓶に注ぎ始めました。ゴルフボールと小石の隙間に、砂がさらさらと流れ込んでいきます。かなりの量の砂が入り、瓶は見た目にもう限界に見えました。教授はまた質問します。「これで、この瓶は満杯になりましたか?」さすがに学生たちは、「いいえ、おそらくまだ満杯ではないと思います」と答えました。教授は最後に、水の入ったピッチャーを取り出し、ゴルフボール、小石、砂が入った瓶に、水を注ぎ込みました。

そして教授は、学生たちにこう語りかけました。「この実験が意味することは、最初に水や砂を入れてしまったら、後からゴルフボールを入れることはできないということです。ここでいうゴルフボールとは、人生において最も大切なものを指しています」

私たちには誰しも平等に時間が与えられています。今日という一日をどう過ごすか、その積み重ねが、生まれてから死ぬまで、つまり人生そのものをどう生きるかに繋ります。先ほどの話で言えば、私たちにとってのゴルフボールとは、自分の心に最初に何を満たしていくのかという問題なのです。私たち本願寺では、「死んだらどこへ行くのか?」という問いを、人生において最も大切な問題として捉え、それを軸に生きることを大切にしています。そして、その答えは「仏様のところへ行く」ということです。私たちがこの世で出会い、そして先に旅立っていった大切な人たちがいる仏様の世界。私たちも、いつか必ずその世界へと還っていく。その確信は、迷い多き人生を歩む私たちにとって、確かな道しるべとなるでしょう。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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あなたは一人ではない:報恩講へのメッセージ


あなたは一人ではない:報恩講へのメッセージ

皆さん、こんにちは。今日はmogi本願寺の報恩講へようこそおまいりくださいました。報恩講とは、親鸞聖人の教えに感謝し、その恩に報いる法要です。親鸞聖人は、私たちに大切なことを教えてくれました。それは、私たち人間は決して一人ではなく、たくさんの命とつながり合って生きているということです。

仏教賛歌『報恩講のうた』には、私たちはいつも三人でいるとあります。それは、私自身、阿弥陀如来様、そして親鸞聖人。この三人です。阿弥陀如来と共にいるということは、私たちの人生が、過去や未来、そして世界や遠い宇宙のあらゆる出来事と深く繋がっているということです。親鸞聖人と共にいるということは、その教えが、多くの人と人との出会いによって今日まで大切に受け継がれてきたことを意味します。

お寺は、目には見えない仏様の世界と、親鸞聖人をはじめとする亡くなった大切な人たち、そして今を生きる私たちを繋ぐ、かけがえのない場所です。今日は報恩講にあわせて、亡くなられた方々の追悼読経も行いました。大切な方を亡くされた悲しみは、どれほど深いものか計り知れません。「もっと一緒にいたかった」「なぜ、あの人は逝ってしまったのか」そう思うほど、悲しみは大きくなります。

しかし、仏教では、「死という苦しみ」の根本は、亡くなった方にあるのではなく、残された私たちの旨の内に感じている「喪失感」にあると説きます。亡くなった方は、阿弥陀如来様の慈悲の世界で安らかに過ごしておられます。もう会ことの出来ない「あの人」との時間に思いを馳せながら、同時に、あの人が安らかに過ごしていることを確信し、私たちは前を向いて歩んでいくのです。

死後の世界は、この世から最も遠い場所にあるように思えます。しかし、それは私たちにとっていつか必ず行く場所であり、最も身近な場所でもあるのです。阿弥陀如来様は、亡くなった方だけでなく、悲しみに暮れる私たちをも、あたたかく包み込んでくださいます。どうぞご安心ください。故人を偲び、その愛した世界を大切に思いながら、周りの人たちと手を取り合い、共に生きていきましょう。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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徳を称え、路を照らす:永代経法要


徳を称え、路を照らす:永代経法要

皆様、本日は永代経法要にご参詣いただき、誠にありがとうございます。この法要は、永代経台帳に記された故人の方々を偲び、ご縁の大切さを改めて心に刻むためのものです。永代経に名を連ねる方々は、皆様にとってかけがえのないご家族だったでしょう。生前、あの方々はたくさんの愛を与え、温かい思い出を紡いでくださいました。

しかし、無常の風が吹き、あの方々は今、私たちのそばにはおりません。それでも、あの方々の面影は、今もなお私たちの心の中に鮮やかに生きています。永代経は、単なる故人の追悼ではありません。残された私たちが、故人やご先祖の遺志を継ぎ、未来へと繋いでいくための儀式でもあります。

私たちは、この世に生を受け、様々な人と出会い、喜びや悲しみを分かçあ合分かち合いながら生きています。そして、いつか必ず、この世を去る時が訪れます。しかし、仏教は、死を終わりとは教えません。死は、変化の一つにすぎず、私たちはこの世での仏様との出会いによって、阿弥陀仏の国へと向かうのだと説きます。永代経台帳に名を刻むことは、故人への感謝の気持ちを表すとともに、私たち自身の未来への道標となるのです。

皆様の中には、永代経への登録を迷われている方もいらっしゃるかもしれません。しかしそれは、未来へのおおいなる投資であり、子孫への愛であり、そして、私たち自身の心の安寧を得るための大切な行いなのです。永代経に名を連ねることによって、故人はずっとこのお寺で供養され、その心は仏の世界で安らかに過ごされることになります。そして、残された私たちもまた、故人との再びの出会いを胸に、仏の教えをいただき人生を精一杯生き抜くことができます。

永代経は、子孫が途絶えても、寺院が責任を持って故人を供養し続ける制度です。故人を偲び、その教えを未来へと繋いでいこうとする心があれば、どのような形であっても、故人は必ず喜んでくれるはずです。どうか皆様、この機会にこのモジダスクルーゼスのお寺に親しんでください。何かあればいつでも相談に来てください。私はそのために家族でこのブラジルへ来ました。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。本日は誠にありがとうございました。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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秋季彼岸におこる命のつながりへの思索


秋季彼岸におこる命のつながりへの思索

皆様、こんにちは。本日は秋彼岸の合同法要にあたり、ようこそお参りくださいました。こうして皆様と共に集い、阿弥陀仏の尊いみ教えに耳を傾けるご縁をいただきましたことに、深い感謝を申し上げます。この南半球の彼岸(ブラジルの春)を迎える季節、暖かな光の中で花々が咲きこぼれ、鳥たちがさえずり、すべての命が生き生きと目覚めていくのが感じられます。自然は私たちに、命の巡りの美しさと、限られた時間の中で精一杯に今を生きることの尊さを優しく教えてくれています。

同時に、このお彼岸は、すでに私たちの元を去っていかれた大切な方々を偲び、そのお徳を称える大切な日でもあります。愛する家族や先祖を失う悲しみは、私たちの胸に深い寂しさと孤独をもたらすものです。しかし、仏様の教えは、私たちがその計り知れない悲しみを受け入れ、静かに乗り越えていくための確かな道を示してくださっています。

仏教では、この世のすべてのものが移り変わり、永遠に留まるものは何一つないという「諸行無常」を説きます。私たち人間もまた、この世に生まれ、やがて等しく命を終えていかなければなりません。しかし、阿弥陀仏の教えは、肉体の死が決して虚無への終わりではなく、お浄土という光あふれる世界への新たなる誕生の始まりであることを私たちに告げています。

私たちは、人生の歩みの中で多くの人々との「出会い」と「別れ」を重ねてまいります。その一つひとつの巡り合いを通して、私たちは命のきらめきと、人と人とのつながりの温かさを知るのです。たとえそのお身体はこの世から見えなくなってしまっても、その方の想いや注いでくれた愛情、そして共にした尊い時間は、私たちの心の中で永遠に生き続けます。それは、消えることのない命の灯火として、私たちの次の歩みへと引き継がれていくのです。

阿弥陀如来は、すべての者を一人のこらず救い取るという大いなる誓い(本願)を建て、私たちを「極楽浄土」へと招き続けてくださっています。お浄土とは、あらゆる苦しみや悲しみから解放された、本当の安らぎが満ちる世界です。私たちが迷い、苦しみの淵にあるときも、阿弥陀仏は決して私たちを見放すことなく、温かな慈悲のまなざしで見守ってくださっています。そして、すでに私たちの元を旅立っていかれた方々もまた、その大きな慈悲の光に包まれて、穏やかなお浄土の世界へと導かれているのです。

阿弥陀仏の暖かな慈悲の光が、まるで春を迎える柔らかな光のように、皆様の乾いた心を優しく満たし、往かれた大切な方々のもとへと届きますように。このお彼岸の尊いつながりを通して、仏様のみ教えが皆様の日々の生活の支えとなり、明日へと一歩を踏み出す温かな希望となりますよう、心より念じております。なんまんだぶ。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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お盆:思い出の川


お盆:思い出の川

皆様、こんにちは。本日はこうしてお寺にお集まりくださり、この美しく尊い伝統であるお盆を共に迎えられましたことを、心より感謝申し上げます。日本から遠く離れたこのブラジルの大地を我が家と呼びながらも、皆様の胸の奥にご先祖様への変わらぬ愛情と大切な思い出が息づいている様子を拝見し、私は深く感動しております。

私たちの故郷である日本からこれほど離れた場所にあっても、自分たちのルーツをたどる心の絆が今なお強く結ばれているということは、本当に胸を打たれることです。何世紀にもわたり、本日も厳かに唱えられました阿弥陀経の美しい調べに導かれながら、お盆の伝統は私たちの先祖にとって、常に希望と慰めの灯台であり続けてまいりました。これは、すでに浄土へと旅立たれた方々の人生を讃え、その歩まれた歴史や教え、そして何世代にもわたって家族を結んできた愛を思い起こす貴重な機会なのです。そして本日、その温かな物語の新たな1ページが、またこの地で綴られようとしています。その1ページは、ただ過去を懐かしむだけでなく、私たちの未来の歩みをも明るく照らしてくれるものです。

「なぜ、いま過去を振り返る必要があるのだろう? 旅立たれた方々とのつながりが、なぜこれほどまでに大切なのだろう?」と不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれません。けれど皆様、植物が美しく花を咲かせるためには地中に力強い根を張らなければならないように、私たち人間もまた、自らの歴史や心の源流をみつめ、育むことで初めて、心豊かな人間として大輪の花を咲かせることができるのではないでしょうか。

先祖と子孫の命を、それぞれ切り離された遠い存在のように考えてしまうことは容易いことです。しかし真実は、私たちはみな、過去から未来へと絶え間なく流れ続ける、大きな一つの「命の川」の一部なのです。その川は人類の歴史、私たちの家族の絆、そして民族の歩みを乗せて滔々と流れています。この大いなる流れの中で先祖を敬うことは、未来の世代へ贈る愛と希望の営みにほかなりません。家族を大切にする心、感謝の念、そして私たちより先に歩まれた方々への敬意を、次の世代へと伝えていくことなのです。

日本の故郷では夏の暑さの中でお盆が迎えられますが、ここブラジルでは、私たちは冬のひんやりとした静けさの中で身を寄せ合っています。それでも、気候や距離にどれほど違いがあろうとも、このお寺を包む温かな空気は全く変わりません。どこか懐かしいお線香の香り、胸をじんと温めてくれる切なくも優しい慕情、そして、どれほどの距離と時間が隔てようとも、先立たれた大切な方々への愛と感謝が消え去ることはないという確信が、ここには満ちています。

お浄土の教えにおいて、私たちが愛し、先立っていかれた大切な方々は、阿弥陀仏の限りない慈悲の光に包まれて、お浄土に往生(新たに誕生)されたと受け止めます。ですから、私たちは今日、ただ「失われたこと」を悲しむために集まったのではありません。私たちが深く愛する方々の、尊い人生とその確かな足跡を祝い、偲ぶために集まったのです。彼らを想うとき、私たちの心には深い思慕とともに、時には「もっと両親と一緒に過ごしていれば…」「もっとあの時に愛していると伝えていれば…」という、悔いのような想いが込み上げてくることもあるでしょう。けれど、どうかそのお気持ちを、ご自身を責める刃にしないでくださいね。それはただ、あなたがその特別な方を今も深く愛し、その存在がどれほど大きかったかを表す、愛の裏返しにすぎないのですから。その想いを、今日という一日をより深く、思いやりと感謝をもって生きていくための力へと昇華させてまいりましょう。

先立たれた方々の思い出が、私たちをより優しく、より誠実で、周りの方々の心に寄り添える人間へと育ててくれますように。どうぞ周りを見渡してみてください。皆様お一人おひとりが、すでに旅立たれた大切な方の歴史と愛を、その身にしっかりと受け継いで歩まれています。たとえ言葉を交わしたことのないお顔であっても、そこには同じ深い想いと明日への希望が宿っているのを感じられます。この世界において、私たちは決して一人ぼっちではありません。私たちは皆、目に見えない愛と思いやりの糸で固く結ばれているのです。このお盆の法要が、皆様にとって自らの根源と深くつながり、家族の絆を温め、そしてお念仏の安心をさらに深める大切なひとときとなりますよう、心より念じております。阿弥陀仏の温かな光が私たちの心を照らし、皆様の歩みを常に幸せへと導いてくださいますように。なんまんだぶ。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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誰かの愛したこの世界で(冬が奪い去れなかった笑顔)


誰かの愛したこの世界で(冬が奪い去れなかった笑顔)

皆様、こんにちは。この本堂から向こうに見えるダムが、冬を迎えて霧を湛えた静かな朝に美しい水面を取り戻すように、私たちのこころもまた、静寂の中で、清らかさを取り戻す季節がやってきましたね。

お寺にはたびたび寄せられる話なのですが、このような話があります。何年か前に、愛する奥様を亡くされた方が、お寺を訪ねて来られました。彼は社会で一生懸命働きながら企業のため地域のため、そして家族のためにと惜しみなく尽くしてきた人です。

「冬になると、妻が恋しくてたまりません。彼女は、もう、凍てつく大地の下に眠っているのに、私は、こんなにも温かな太陽の光を浴びているのが、申し訳なくて…」彼は胸の悲しみを押し殺しつつも、その胸中を絞り出すようにそう語られました。

そこで僧侶は彼に静かに言いました。「奥様は、もう私たちのそばにはいません。しかし、彼女が愛して全力で生きたこの世界は、今もあなたを明るく包み続けてくれています。そして、彼女の優しい笑顔は、きっと、あなたの心の中で、輝き続けているはずです。」

「土に根を下ろし、風とともに生きよう。種とともに冬を越え、鳥とともに春を歌おう」

この言葉は、厳しい冬を耐え忍び、再び芽吹く植物のように、愛する人を失った悲しみを乗り越え、力強く生きていくことを私たちに教えてくれています。彼のように、愛する人を亡くした悲しみは、言葉では言い表せないほど深いものです。しかし、仏様の教えは、「何事も遅すぎるということはないのです」と語りかけます。過去は変えられません。しかし、今、この瞬間から、前を向いて生きていくことで、未来は変えることができます。大切なのは、故人を偲び、その思い出を胸に、一日一日を大切に生きることです。

そして、悲しみの中にいる友を見かけたら、温かい言葉をかけてあげましょう。それは、きっと、あなた自身の心を癒すことにも繋がるはずです。今日ここに集い、共に祈りを捧げるこの時間は、言葉や文化、習慣の違いを超えて、悲しみを分かち合い、共に心を温め合う貴重な機会です。このお寺が、皆様にとって、心の拠り所となり、安らぎと希望を見出すことができる場所となるよう、私たちも精進してまいります。そして、大切な人の死を悼むこの行為を通して、私たち自身の心を癒し、明日への希望を見出していきましょう。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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人間の精神の気高さ


人間の精神の気高さ

皆さん、こんにちは。本日はようこそおいでくださいました。今日は、日本からブラジルに移り住んだ移民たちを記念して集まっています。私たちのおじいさん達は、故郷を離れ、家族を連れて新しい土地に移るという大きな決断をしました。この「決断」というものは私たちの人生の本質を形作っています。

物質の時代と言える現代において宗教活動というものは一見すると価値を見出せず無駄で高価な出費でしかないと思われることは多々あります。しかし宗教の本質は物質ではない物→「精神性」という物に価値を見出す行為です。この物質でできた現世から命を終えていった方たちが心に安楽を持って暮らしている世界があると信じているからこそ、私たちも安心して現世で過ごせているのだということを決して忘れてはいけません。死後を地獄や極楽と呼ぶことがあります。もしかしたら本当は何もないのかもしれません。しかし、私たちにとって大切だったあの人にだけは何もないなどということはなく死後も安楽に過ごしてほしいと思うことは正しい事なのです。

人間の精神や魂という物の高潔さとはいかに苦労してきたかということで測れるものではないのです。ただ、他者の悲しみにどれだけ寄り添えるかということこそが重要であり、その寄り添いの究極的な歩み寄りを仏の心と呼びそれは「思いやり」とよばれるのです。仏の心へ寄り添っていくという決断は簡単なようで自分の人生の方向性をすべて変えてしまうほどのエネルギーが必要です。しかし、だからこそ全力をかけるにふわさしい尊い行いと言えるでしょう。あとどのくらい私たちには時間が残されているのでしょうか?一刻も早く思いやりに満ちた人生を送り人間の尊厳を保った人生に目覚めて頂きたいと思います。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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出会いと別れ:幸福についての思索


出会いと別れ:幸福についての思索

みなさんこんにちは。五月の追悼法要へようこそお越しくださいました。現在私が把握している分で5月には193人分の故人の名前をお寺のWebサイトへ記載しています。しかし私がまだ知らずにサイトへ記載されていない人の名前はまだたくさんあるでしょう。また、このお寺以外でも世界中で数えきれないほどたくさんの方が5月に亡くなっていることでしょう。しかし、このことは同時にこれまでにそれら亡くなった人の数だけたくさんの誕生がありました。人が一人生まれるにはその両両親の出会いがありさらに両親にも親がいてとたくさんの出会いの上に人は生まれてくるのです。人の一生というものはたくさんの「出会い」とそれと同じ数だけの「別れ」でできています。

今日のモジダスクルゼス本願寺の法要は私たちの宗派浄土真宗の開祖親鸞の誕生を祝います。私たち全員の尊敬すべき師匠の誕生祝いに伴い今日はみんなで一緒に人間の人生について見つめてみましょう。「私たちは幸せですか?」と聞かれたときにどのように答えますか?不幸であるとは言えないかもしれませんが幸せであると言い切ることも難しいでしょう。幸せとはどうやって決めるのかについて興味深い内容の言葉を紹介します。

・屋根と窓と明かりのある家に住んでいる人は世界で裕福な上位25%に入る
・趣味に費やせるお金や時間があるなら世界で裕福な上位13%に入る
・今、生きていると言う事はこれまで亡くなった何万人の人々が夢見た「未来」に生きている
・今、この文を読んでいるなら目が見えず読み書きができず知性や情報を得る手段の無い30億の人々よりも幸運である

人生は痛みや悲しみを嘆くためにあるのではない。数え切れない感謝と幸せに目を向けるためにある。というものです。この話を聞いて皆さんはどう思いましたか?

私達仏教では幸せと言う状態は一時的なものでありいずれ失われるものとして捉えます。幸せということそのものより、幸せてある現状に固執してしまい、それを失うことを恐れる状態を苦しみの一つと考えます。しかし、逆に考えるとそのことは今どんな不幸があってもそれは永遠に続かないということも表しています。そのために宗祖親鸞は自分の幸せとして財物や社会的な成功と言った物欲だけを追求することは真理を求めることではないとして厳しく禁じたのです。

現代の社会は昔の人達の苦労のおきげで特に求めなくても様々なものを手に入れやすくなりました。そのような社会に生きる者にとって本当に大切なこととは、自身の幸せや不幸に拘らずに広い視野を持って周りにいる人の幸せを一緒に喜ぶ心を持つことではないでしょうか?親鸞聖人は阿弥陀仏の慈悲をもって私達の人生の救いとしました。慈悲とは他者の悲しみを我が悲しみとして感じ慈しむことを意味します。同時に喜びも分かち合い全体の調和というものを大切にする気持ちを世界に向けて説きました。いま、この場所にお寺があるのもその精神が日本人移民を通して代々受け継がれているからでしょう。そして私も皆さん一緒にその大切な気持ちを次の世代に受け継ぐためにこの地にかぞくでやってきました。どうぞこれからもよろしくお願いします。挨拶は以上となります。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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人生の歩みを照らす二つの光:釈尊と阿弥陀如来


人生の歩みを照らす二つの光:釈尊と阿弥陀如来

夜の運転は、先の見えない道を進む不安と恐怖に襲われます。しかし、私達の人生も同様に、先の見えない道を手探りで進むしかありません。安全に進むためには、足元と行く先を照らす二つの灯火が必要です。車のライトはまさにそれであり、転ばずに目的地まで安全に導いてくれます。さらに、たくさんの人と共に進むなら、心強さは何倍にもなります。

浄土真宗には、私達の人生を照らす二つの仏が存在します。足元を照らすのはお釈迦様、そしてはるかな行く先を照らすのが阿弥陀様です。命の終わりの先にある遠い世界を、「ナンマンダブ」という言葉で具現化することで、今この瞬間を生きる私達の足元も照らされます。多くの人と共に「ナンマンダブ」と称えることで、その灯火はさらに強くなり、迷いなく進む道標となります。それぞれ異なる道を歩んでいても、辿り着く先は同じ浄土です。

今日は、そんな私達の人生を照らし、一歩一歩と安全に歩むための道しるべを示してくれたお釈迦様の誕生を記念する素晴らしい日です。お釈迦様は、苦しみの原因を説き、苦しみから解放されるための道を教えてくれました。その根本は物事の成り立ちを正しく考えながら日々の生活を送ることから構成されています。これらの教えを実践することで、私たちは人生の苦しみを克服し、真の幸福へと導かれるのです。

一方、阿弥陀様は、私たちを極楽浄土へと導いてくれる仏様です。阿弥陀様は、長い時間の哲学的思考を重ね、全ての人々を救済するために「ナンマンダブ」と称える念仏を説きました。念仏を称えることで、阿弥陀様の慈悲によって極楽浄土に生まれ、永遠の幸福を得ることができるとされています。

人生という旅路は、決して一人ではありません。同じ澄み切った確信を共有する仲間と共に歩むことで、互いに励まし合い、支え合いながら、より強く、明るく進んでいくことができます。浄土真宗の寺院では、法要やバザーなど、様々な活動を通して、多くの人が共に歩んでいます。今日という日を迎えられたことは、お釈迦様のおかげです。お釈迦様の誕生を祝い、感謝の気持ちを捧げることは、私たちにとって大切なことです。そして、お釈迦様の教えを実践し、自身の成長と幸福、そして周りの人々の幸せのために努力していくことが、恩返しとなるでしょう。

夜の運転は不安と恐怖を伴いますが、車のライトという灯火によって安全に目的地へと導かれます。同様に、人生という旅路も、お釈迦様と阿弥陀様という二つの灯火によって照らされ、多くの人と共に歩むことで、より明るく、充実したものとなるでしょう。今日という特別な日をお釈迦様と共に祝い、感謝の気持ちを忘れずに、明日への活力を得ていきましょう。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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お彼岸:生と死についての思索


お彼岸:生と死についての思索

みなさんこんにちは。本日はようこそお参りくださいました。お彼岸は、季節の変わり目に行う大切な行事です。暑い夏が続いていますが、お彼岸は、自分の人生や大切な人たちの命について考える日でもあります。科学技術の発展により、医療や工学は進歩し、体の不自由さも補助器具で補えるようになりました。しかし、死後の世界はどうなのでしょうか?

科学的には、死と共に思考や記憶は失われ、残るのは骨だけになります。「彼岸」とは、死後の世界を「向こう側の岸」に例えた言葉です。本当に何もないのかもしれません。死後の世界について、誰も確かなことは言えません。多くの人は、苦しみから解放され、安らかに眠りたいと願います。しかし、大切な人が亡くなると、話は違ってきます。死後も幸せでいてほしいと願うのは自然なことです。

死によってすべてが無になるのは悲しいため、昔の人たちは神様や仏様の世界を創造しました。永遠の存在である神や仏と共にいれば、私たちの思いも永遠に残る場所を求めたのです。一人の人間の存在は、宇宙や歴史の中では儚いものです。しかし、「永遠の存在」と共にいるという希望は、私たちに生きる力を与えてくれます。大切な人は今どこにいるのでしょうか?浄土真宗では、亡くなった人は仏様になると信じられています。南無阿弥陀仏と称えることで、仏になった家族と再会したいという気持ちを表すのです。お彼岸は、大切な人への想いを馳せ、自分の人生を見つめ直す貴重な機会です。今日、皆さんはお寺にお参りしご先祖様や大切な人への感謝の気持ちをお伝えいただきました。どうもありがとうございました。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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誰かを信頼すること:誤解や傷つきを受け入れること


誰かを信頼すること:誤解や傷つきを受け入れること

人を信頼するって言いますね。でもそれはその人を信頼しているのではなく、自分が理想とするその人の人物像に過度に期待してしまっているだけの場合が多いのです。期待していたのに裏切られたという場合もその人が裏切ったのではなく、自分が思っていた人物や能力でなかっただけのことなのです。その人の見えなかった部分が見えただけのことであり、それが見えた時に「あぁ、それもまたその人なんだなー」って受け止めていくことこそが本当の信頼なのでしょう。

他人の印象を勝手に自分で決めてその通りに行かずに人間関係の森を彷徨うようなものです。まよわず揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は『信頼する』って口に出して、不安な自分がいるからこそ成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました。でも人が人にすがるのって一方的に相手に頼って負担を与えているだけなんです。他人に寄っかかっているだけってすごく楽ですもんね?でも寄っかかられている方は何倍も頑張っているのです。そういうのは信頼するとは言わないで過剰な期待の押し付けなのです。その過剰な期待を仏教では「煩脳」と言います。

私たちの宗祖親鸞聖人は「信頼する」ということについてこのように言われました。「例え法然上人の勧める念仏のせいで地獄に落ちたとしてもかまわない。どうせ自分でどんなに頑張っても自分の力だけでは極楽浄土には行けないのだから。これが自分の力だけで十分極楽浄土へ行けるのに念仏を信じたせいで地獄へ落ちたのならそれは騙されたとなる。どうせ地獄へ落ちるしか道の無い自分だからこそせめて尊敬する師匠の言うように念仏をしてみよう」ということです。つまりその人を信頼するとはその人にならたとえ騙されても損害を被ってもかまわないと言う信頼をこちらから与えることに他なりません。親子の信頼関係こそがまさにそうではないでしょうか?そして私たちにとっても親鸞聖人が言われるように阿弥陀仏こそが信頼すべき大切な方なのです。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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「大切な」人の本質:他者を想う心


「大切な」人の本質:他者を想う心

みなさんお元気ですか?本日はようこそお参りくださいました。このお寺のWEBサイトでは皆様の大切なご家族のお名前と死亡日を掲載しています。サイトに載っていないご家族のお名前も追加したい場合は申込みや手続きは不要なのでただWhatsAppに掲載を希望する方の名前と死亡日を教えてください。すぐに掲載します。これらのお名前はお寺が続く限り故人がこの世に存在していた証としてずっと大切に掲載し続けます。また、一人でも多くの方々にご覧いただきたいので掲載されましたらご家族やご親戚の方へも案内してください。

それでは法要に際して恒例の仏教の話しに入りたいと思います。今日は偉い人とはどういう人のことを言うのかという話をしたいと思います。日本の東京で1番の繁華街である銀座の寿司屋には値段の高い店から安くても美味しい店までたくさんの選択肢があります。皆さんは寿司を好きですか?寿司屋の料理は握り寿司が有名ですが、その本質はその季節に一番おいしい魚を材料としてその持ち味を最大限に生かせる調理とそれに会う飲み物などを総合して提供する日本料理の一分野です。

もちろん安くて美味しいならそちらのお店の方が良いと思いませんか?しかし、中にはその高級寿司店に何回も通う人たちもいるのです。しかもなかなか予約も取れず入店することさえ難しく、一回の食事値段がブラジルの貨幣で言えば何千レアルにもなるような店です。そういう店でいつでも予約しないでも入店して寿司を食べられる人を偉い人と呼ぶとこがあります。そのように聞いて皆さんはどう思うでしょうか?そんなわけないでしょう?たしかに高い店で食事したら偉いという考えは変な考えですね。

話は続きますが、そのお店には高い料金を払える人しか客として入店できません。しかし、それだけの対価を払うのだから自分は偉い人であるという人は殆どいないのです。それどころかお客さんは調理場に立つ板前さんへ高級なお菓子や東京から離れて土地の珍しい贈り物を携えていくのです。客という立場にも関わらず常に低姿勢であり板前さんの技術を尊敬してより良い関係を保ちながら上質のサービスをえたいという思いから自然に紳士的な振る舞いになるそうです。一方で寿司屋の方もただでさえ高額な食事代を払っていただく上にお土産の気遣いや、忙しい時期でなく売り上げの少ない時期にあえて来店して売り上げを支えてくれる常連顧客には自然と気合の入った技術を駆使して最上質の待遇でおもてなしをするそうです。もちろん食材の原価など考えずに大切なお客様には惜しみなく楽しんでいただくための対応をするということです。偉い人とは「低姿勢で相手を思いやることができる人」というのは一つの回答と言えるでしょう。

これは一般世間の話ですが、一方でその一般の世間から一歩出た「み教え」の世界ではどうでしょうか。阿弥陀如来は無上の慈悲で私たちの行末に手を差し伸べてくださいます。それこそ宗祖親鸞聖人がこれ以上素晴らしいものはないと絶賛されるものです。それに対して私たちはどのようにその差し伸べられた手をいただくのでしょうか?何も高級なお土産を持っていってやっと入れるようなお店とは違い、お念仏一つで誰でも最上級のお慈悲がいただける道を示してくださったのが親鸞聖人です。

今日の話を聞かれて皆さんはどのように思ったでしょうか?世界に宗教はたくさんありますが実はその教えには似たようなことがたくさん書かれています。それらの多くは以下の三つに集約されます。「むやみな殺生の戒め」「略奪にかんする戒め」「嘘をつくことに関する戒め」それぞれ信奉する神や経典は異なりますが人間が生物としてその文化の存続や種の繁栄のために大切なことを最初に説かれている点が共通しています。すべての人が仏教徒になる必要はありませんが、すべての人は人間としてあるべき姿に向かう姿勢は重要です。どうか大切な家族の追悼のために自分の時間を割くという生物として高等な習慣を身につけられている皆様にはせめて人間として大切なことを共に尊重していきたいと思います。お寺とはそのような場所なのです。

先日日本の教団本部から北陸地震の被災者への義援金の協力要請がありました。もしほんの少しのお気持ちがあればぜひご協力をお願いします。こうして集められるブラジル各地からの募金は後日サンパウロのお寺に集めて日本の本部へ送金されます。どうぞよろしくお願いします。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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