Funeral de
emargencia

仏教についての小さなお話

心を静め、真理に出会う ― 先立たれた方々の遺すもの


心を静め、真理に出会う ― 先立たれた方々の遺すもの

みなさんこんにちは。本日は永代経法要へようこそお参りくださいました。最近、テレビのニュースなどを見ていて、社会の行く末や政治の混乱に頭を悩ませている方も多いのではないでしょうか。

私たちがそうやって苦しんでいるのは、まだ起きてもいないことに不安を感じて、考え過ぎてしまっているからです。今の暮らしを必死に守ろうと、起きてもいない先の混乱に悩み、さらには「誰が言ったか?」という肩書に振り回されて、何が本当かわかりにくくなってしまうのでしょう。

そこでお釈迦様は、「誰が言っているか?」より「何を言ったか?」という部分を大事にされました。普段素直になれない私たちが素直になれる場所があるとすれば、それは故人の前です。なぜなら、故人は生前の肩書を脱ぎ捨てて仏様となったからです。

故人がその身をもって教えてくれるのは、「人間の命には限りがあり、自分の思い通りにいくことなどない」という事実と、「それでも私たちは、たくさんの何かと支えあって生かされている」という温かな真実です。死してなお、私たちの漠然とした不安を癒してくれる存在を、私たちは仏と呼びます。

永代経は、亡くなった方々を通して、いつまでも変わらない阿弥陀仏の教えに出会い直す法要です。今日ここでお参りする時間が、頭の中の「考えすぎ」を少し休めて、ご先祖様から届いている大きな仏様の慈悲に身を委ねるきっかけになればと思います。本日はようこそお参りくださいました。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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自らの正しさを超えて


自らの正しさを超えて

皆さんこんにちは。お彼岸の法要へようこそお参りくださいました。黄色いイッペーの花が咲き始めて春の訪れを感じるこの頃です。まだ肌寒い日もありますが、昔から春の訪れを感じつつ、大切な方々を偲んでお参りするのがお彼岸です。本日も皆様が持ち寄られた大切なご家族のお名前を、追悼の読経とともに読み上げさせていただきました。

私たちは普段、真面目に働き、ルールを守り、誰にも迷惑をかけずに生きていると思っています。

しかし、思い通りにいかないことが起きたとき、私たちはどうでしょうか。ほんの少しの不便や、体調の崩れ、仕事や人間関係の食い違いがあるだけで、心の中はすぐに不満や文句で一杯になります。自分は何も悪くない、周りが間違っていると、心の中で誰かを責め立ててしまいます。

私たちは、自分が分別のある穏やかな人間だから、波風を立てずに生きられていると思い込んでいます。しかし、事実は違います。私たちはただ、自分の生活を根底から揺るがすような過酷な事態に、たまたま出遭っていないだけに過ぎません。置かれた立場や環境という条件が一つ狂えば、誰であっても心に余裕を失い、人を傷つける側に回ります。

いま私たちが日々の平穏を保ち、こうして不満や文句を言っていられること自体、実は大変な贅沢であり、自分の実力ではありません。今日お名前を読み上げた親や先祖、先立たれた方々が、どれほどの苦労をしてこの生活の基盤を切り拓き、私たちに残してくれたかという、無数の支えのおかげなのです。

この事実に気づいたとき、「自分は正しく生きている」という思い上がりは崩れ去ります。当たり前だと思っていた食事や仕事、そして家族と過ごす日常のすべてが、亡き方々から手渡されたかけがえのない贈り物であったことに気づかされます。

人間は、置かれた条件次第でどこまでも心が荒み、他者を裁いてしまう、極めて頼りない存在です。だからこそ、阿弥陀仏は「そのようなお前だからこそ、決して見捨てない」と救いの手を差し伸べています。そして、仏となった亡き方々もまた、その大きな慈悲の側から、迷い多き私たちの歩みを静かに見守ってくださっています。

お彼岸とは、自前の正しさという胡坐を下ろし、亡き方々の恩を感じながら、自分が無数の命に「生かされている側」である現実に立ち返る時間です。

この受け取った平穏への感謝と、故人への偲びを胸に、今日からの日々の仕事や家庭の暮らしへ、静かに戻ってまいりましょう。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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記憶と感謝の聖なる絆


記憶と感謝の聖なる絆

世界中で、私たち生きている人間が亡くなった人を思い出す行事が行われています。日本の文化におけるこのお盆の法要も、死者を思う行事の一つです。

お盆は、聖者が亡くなった母親を思い、感謝を捧げた話から始まりました。今日、私たちはたくさんの提灯を飾って、このお盆の法要を行っています。現代社会では、なぜこの儀式を行うのかという根本的な意味が忘れられがちです。しかし、私たちが今日ここに集まり、提灯を掲げることには明確で深い理由があります。

今日は「お別れ」を意味する言葉について話しましょう。日本語で別れる時の挨拶は「SAYOUNARA」と言います。世界中のすべての言語に別れの挨拶が存在します。しかし、日本語の「さようなら」という言葉の成り立ちは、非常に特徴的な意味を持っています。

昔の日本人は、人と出会い、会話や作業を行い、必要な用事がすべて終わった時に、「そういうことであるならば、私はここから立ち去ります」と言いました。この「そういうことであるならば」という文章が短くなり、「さようなら」という言葉になりました。この言葉は、人間の基本的な生き方を示しています。人間は、この世で果たすべき目的や仕事を持って生まれてきます。そして、その目的や仕事をすべてやり遂げた時に、静かにこの世を去っていきます。これが日本文化の根底にある人生の観念です。

お盆の提灯について、「亡くなった人の霊が家に帰ってくる時、道に迷わないように明かりを灯す」と説明されることがあります。しかし、本来の意味は異なります。亡くなった私たちの先祖や大切な人々は、自らの人生の目的と使命をすべて達成して、次の場所である仏の国へまっすぐ進みました。彼らは途中で迷ってなどいません。そして、彼らはそこから今も私たちを温かく見つめ続けています。

私たちが本堂の天井に大切な人の名前を書いた提灯を掲げているのは、その事実を証明するためです。私たちが会いたいと思った時、故人はいつでも私たちの心の中に現れます。故人は遠くから戻ってくるのではなく、最初からずっと私たちと共にいたのです。私たちは、その感謝の印として名前を提灯に掲げています。

「そういうことであるならば」という言葉は、すべての役目を果たしたことを意味します。では、あなたの大切な人が果たした役目とは何でしょうか。故人は特別な偉業を成し遂げていないと思う人もいるかもしれません。しかし、故人が果たした最大の役目は、あなたと出会うためにこの世に存在し、あなたの中に自分の記憶を残したことです。

故人がこの世に生まれ、あなたと出会い、存在を残したからこそ、私たちは目に見えない愛や繋がりが確実に存在すると確信できます。だからこそ、私たちは感謝と共に故人の名前を胸に刻み、提灯に書き記します。

「さようなら」という別れは、単なる終わりではありません。それは、出会いという関係を完璧に完成させるための最後の重要な締めくくりなのです。役目を終えた大切な人々を讃え、その出会いに感謝し、今ここにいる仲間と共に食事をし、生きている喜びを分かち合うこと。これこそが、私たちが準備を重ねて行っているお盆の法要の真の意味です。私たちが今日ここで提灯を掲げることは、非常に大きな価値と意味を持つ行為なのです。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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未知なる道、確かな歩み — 10年の歩みと仏の癒やし


未知なる道、確かな歩み — 10年の歩みと仏の癒やし

無明の闇を破るゆえ 智慧光仏となづけたり 一切の諸仏三乗も ともにその徳をほめたまう。

皆さんこんにちは。本日もようこそご参詣くださいました。普段見過ごしがちなことなのですが、「私たちは目に見える一部分だけで何かを判断しがちですが、本当に大切なつながりは、目に見えないところにこそ存在する」ということがあります。今日はそんなお話を少ししたいと思います。

私たちは普段、意見が合わない人や、キツイ人に出会うと、その「厳しさ」や「頑なさ」という目に見える部分だけで相手を決めつけ、嫌だなと思ってしまいがちです。でも、そのキツさの裏側には、昔傷ついたことがあったり、何かを守ろうとしている優しい一面が隠されているだけ、なこともあります。世界には、優しいだけの人間も、厳しいだけの人間もいません。どんな人も、あなたと同じように、優しさも厳しさも、喜びも悲しみも、すべてをその心に抱えて必死に生きているのです。

このように、目に見える姿だけにとらわれず、「いや、それだけじゃない」と、気づこうとする心の働きこそが、仏教では「智慧」とよばれます。そして、すべてを見通せない世界で、ただ一人、あなたの心の奥底まですべて見つめ、包み込んでくれる存在を、私たちは「阿弥陀如来」つまり仏さまと呼びます。仏さまは私たちに智慧を授けてくださるのです。

この仏さまから授かった心の眼を、今度は、すでに亡くなられた大切な人々とのつながりに向けてみましょう。今日皆さまは大切な人の位牌を、その思い出を胸に抱えてご参詣されました。彼らの肉体や命は、確かに、もうこの世界には存在しません。眼で見ることも声を聴くことももうできません。しかし、私たちがその存在を心に想い、あの日の声に耳を傾けようとする限り、大切な人たちは、目に見えない温かなはたらきとなって、今も私たちの歩みを支え続けています。死してなお、私たちを支え、癒やし続けてくれる存在。それこそが、仏さまなのです。

このように、大切な人たちとのつながりを大切に思う気持ちこそが、私たちが阿弥陀如来のお慈悲を頼りとして浄土への往生を願う心であるお念仏へとつながっていきます。世界をあるがままに見るということは、目に見えない部分、見落とされがちな故人からの慈悲を一生懸命に見ようとすることにほかなりません。確かに私たちの命は有限ですが、ご先祖様から私たち、そして未来の子孫へとつながる歴史の流れは、時間と空間を超えて今も決して途切れない一本の線でつながっています。

ナンマンダブという言葉ははるか昔から、人から人へと今日まで続いてきました。本日、この10周年という大きな節目を迎えられたのは、まさにその目に見えない先人たちとのお念仏の絆があったからです。この紡がれてきた尊い歴史の一ページを、清水先生、堀井さん、柴田さんをはじめとする、多くの皆さまのご尽力とともに迎えられたことに、そして、ここに一同がそろってお念仏申せることに心からの喜びを申し上げます。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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尊い型と心の空き部屋


尊い型と心の空き部屋

今日、皆さんはそれぞれの思いやご事情を胸に、大切な方々を偲ぶためにこの場所へ集まってこられました。姿の見えない相手に向かって、そっと手を合わせる。お経の声に静かに耳を傾ける。ふと、「この行いに、一体どんな意味があるのだろう?」と思うことはありませんか。実は、皆さんが今まさにされているこの形の中にこそ、仏教の最も深い智慧が隠されているのです。

私たちはよく、心がすっかり清らかになってから、あるいは、すべてを悟ってから、仏様のように穏やかに生きようと考えます。けれど、本当の安らぎを得る人は、その順序を逆にするのです。手元にどれほど不安や迷いがあろうとも、まずは「先に仏の真似事」をしてみる。はるか昔から続けられてきたお経の声に身を委ね、お寺の静寂の中にすっぽりと入り込んで、丁寧に手を合わせてみる。先にその尊い形の中に入ってしまうことで、私たちのざわついた心は、後から静かに引き上げられていくからです。

私たちの身体は食べたもので作られますが、心は、耳で聞いた言葉や、胸の中で思った言葉から作られていきます。心が渇いているとき、私たちはつい「今、損をしないか」「どれだけ楽ができるか」という目先の計算ばかりをしてしまいます。でも、「この程度でいいや」と投げやりに選ぶ毎日は、無意識のうちに自分の心を荒ませ、本当の安心から遠ざけてしまいます。

自分がまだ知らない安心の世界を、自分の心の中だけでゼロから作り出すことは、とても難しいことです。だからこそ、ほんの少しだけ視点を変えて、日々のちょっとした選択の中で、先に仏様の教えを選んでみる。その行いをなぞってみるのです。「どれくらい得をするか」ではなく、「この行いが、自分の心にどんな安らぎをもたらすか」という目に見えない価値を選び取ってみる。一つの食事、一つの出会い、そして、誰かを穏やかにする優しい言葉を選んでみる。それは決して、自分を良く見せるための偽善ではありません。すでにそこにある仏様の豊かな温もりを、自分の心に染み込ませるための、とても大切な型なのです。そのほんの少しの繰り返しが、いつしか私たちの言葉を変え、物の見方を変え、生き方そのものを変えていきます。

阿弥陀経には、お浄土には「すべてがある」と説かれています。その一方で、悟りの世界は「何もない世界」であるとも説かれます。すべてがあるのに、何もない。これは決して、答えの出ない矛盾ではありません。今日、皆さんが大切な人を想い、目先の損得や執着を手放して、静かに手を合わせたとき。皆さんの心の中には、ぽっかりと「何もない静かな部屋」ができました。その空っぽの部屋にこそ、仏様の無限の慈悲が、なみにみと流れ込んでくるのです。値段や損得ではなく、ただその静かな事実に身を任せてみる。皆さんが今、大切な人のためにここに来て、手を合わせているその姿こそが、仏という大きな働きに抱かれた安穏な人生への、一番確かな入り口なのです。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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選択の彼方:私たちを受け入れる堅固な大地


選択の彼方:私たちを受け入れる堅固な大地

もしも、あのとき何か一つでも違う道を選んでいたら。私たちは毎日、たくさんのこれを選ぶか、あれを選ぶかということを繰り返して生きています。時間が余ったから早く出かけようとか、お昼はどこのお店で食べようかとか、いつも何かを決めています。コーヒーに砂糖を入れるか、それとも今日はやめるか。そんな小さなことでも、私たちは選んでいるのです。

私たちの前には、進むことができる道がいくつもあります。その中から、いつも一つだけを選んで、今日まで歩んできました。でも、私たちは本当に自分の力だけで、自由にそれを選んってきたのでしょうか。今という場所からこれまでの人生を振り返ってみると、すべてのことは、こうなるしかなかった必然だったのではないか、と思えてきます。もしあのとき、違う学校に行っていたら。もしあのとき、違う場所へ旅行に行っていたら。私たちが偶然ここにいると思っていることは、実は最初から決まっていたのかもしれません。これは不思議な奇跡でしょうか。それとも、当たり前のことでしょうか。

解き明かしてこれから私たちはどこへ向かっていくのでしょうか。明日のことは、私たちには誰にもわかりません。けれど、今よりも良くなってほしいと願うことはできます。そのために一生懸命に何かをすることはできます。私たちはそれを、人生と呼んでいます。先が見えないからこそ、私たちは明日に希望を持つことができるのです。

このように、私たちのこれからのゆくえを、最初からずっと見ていてくれる存在があります。それを私たちは、仏様と呼んでいます。仏様が見つめている私たちの未来とは、私たちがいつか必ず、仏様の国、お浄土に生まれるということです。誰がどんな人生を歩んでも、どんな生き方をしてしまっても、仏様は必ずお浄土へ連れていくと、今も私たちを信じて待ってくれています。そうやって、私たちの先に出発していった大切な人たちも、みんな仏様になって、今の私たちを見守ってくれています。

どんな道を歩んでも、最後は見捨てられることはない。先が見えなくて不安な私たちに、戻っていく故郷があることを教えてくれる。今日は、そのいちばん大切な安心を私たちに届けてくださった、親鸞聖人の誕生日をお祝いする法要です。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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器としての「私」


器としての「私」

今日、私たちが甘茶をかけたあのお姿。仏教の開祖、お釈迦様が生まれた時の姿で、天と地を指さして放たれた言葉があります。「天の上にも下にも、仏になれるのは、自らの我(が)しかない」

私たちは、お腹が空けば苦しいし、自分のお金が減れば不安になります。どこまで行っても「自分、自分」としか考えられない。世間ではそれを「我」と呼び、戒めるべきものだと教えられます。けれど、それがこの「いのち」のありのままの姿です。

強い光には、必ず濃い影が落とされます。人間が光り輝くだけで生きていくことはできません。綺麗さ、美しさ、立派さばかり追い求める必要もありません。むしろ、この「自分勝手で、どうしようもない自分」という、埋めようのない心の凹み。

その足りなさに、自分自身が降参して「ああ、私はこのままでしかいられないんだ」と気づいた時。そこに仏様の慈悲がなみなみと注がれ、そのまま仏となる。それを、救いと呼びます。

甘茶のほのかな甘みは、天の竜神からの祝福です。この不完全な命のまま、世界に出会えたことへの、混じりけのない喜びです。今日もこの「自分」を抱えたまま、共に感謝の日を過ごしましょう。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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日常の静かな光の中で


日常の静かな光の中で

今日、ここまでくる間に見上げた空。浮かぶ雲、頬をなでる風。明日はどうなるんだろうか?きっとみんな幸せだろう。そんな、なんてことのない一つひとつの感触が、かけがえのない「せかい」そのものです。

私たちは、ついつい自分の毎日を「もっと良くしよう」とか「もっと立派にならなければ」と、力みながら生きています。けれど、良さって何でしょうか。立派って、どうなることなのでしょうか。どんなに背伸びをしても、どんなに反省しても、この「いのち」という大きな流れの中から外れることは、一秒たりともできません。

明日のあなたが、笑っているかもしれない。泣いているかもしれない、もしかして、この世のどこにもいなくなっているのかも。その時その時のあなたの姿は、ただ、「笑っていても」「泣いていても」、この世界とともに休みなく形を変え、巡り続けているという、そういった、美しい輝きです。

「良い自分」を誇ることも、「ダメな自分」だと嘆くことも、生きていくには必要ありません。代わり映えのしない、このあたたかな日常の光の中に、私たちは最初から抱かれていました。仏様の眼差しから見れば、そのすべてが、尊い一つの「めぐり」に他なりません。

私たちは、救われるためにどこかへ行く必要はありませんでした。あせって何かをする必要もありません。ただ、この静かで、迷いのない光のなかで、できることを精一杯やりながら日々を過ごすだけでいいのです。たとえ、足元に深い影が落ちていたとしても。その暗闇さえもまた、仏様の温かな眼差しに包まれた、光のなかの出来事なのですから。今日も共に、感謝の日を過ごしましょう。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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静寂の裏にある愛


静寂の裏にある愛

皆さんこんにちは。見回してください。私たちはこのコミュニティの生きた歴史を目にしています。それは「一世」の開拓者たち、そして彼らの子孫である「二世」「三世」の皆さんや、もっと新しい世代です。このブラジルの地で育った皆さんにとって、日本人移民一世の両親や祖父母達にはずっと「不思議な部分」を感じていたかもしれません。「なぜあんなに厳しかったのか?」「なぜ自分の思いをもっと伝えてくれなかったのか?」こうした厳しい態度は、しばしば冷たさや心の距離感のように思えたかもしれません。もしかしたら、じいちゃんから理解されていないと感じていたかもしれません。

しかし今日は皆さんのために、この「静かな男たちの思い」をお話しさせてください。それは冷たさではありませんでした。まず第一には言葉の問題がありました。それでも「明治から第二次世界大戦が終わるまでのあいだの日本」という文脈には、世界で最も奇妙で今では理解できない風習が国家の教育として深く国民に根付いていたのです。近代的な社会への移り変わりの中に残る侍の気骨ある生き様でした。家族に愛を説くよりも強さと正直さをその姿で伝えることを大切にしていたのです。それは同時にこの地で生き残るための、最も極端な形の「愛」でもあったのでした。

開拓者たちがこの地に到着した時、一家を養っていくなんの保証も助けもありませんでした。一瞬の弱気、一度の「甘やかし」が、家族全員の生存を脅かすこともあり得たのです。家族を守るために、彼らは心を固く強くしなければなりませんでした。あなたたちが強くこの大地で生きるように、彼らはそれこそが与えられる唯一の「愛」だと思っていたのでしょう。

日本の故郷がどんなところだったのか、どんな思いを残してきたのか、過去の涙について沈黙を守ったのは、ポルトガル語が苦手だっただけではなく、過去のではなく、この国での未来を向いてほしいと思ったのでしょう。日本が素晴らしいことだらけならブラジルには来なかったでしょう。祖国日本を良い国だと思いさらにこの地での未来にかけていたのです。そして彼らがこの地に築いたものこそがこの日系社会なのです。今の私たちの人生は、この沈黙の理想の上に築かれました。

しかし今、時代は変わりました。彼らの長年の思いは、今、新たに皆さんと共有されました。私も僧侶として、このような日本の歴史的、精神的な文化を守り抜く責任を負います。今日から、あなたたちの両親や祖父母といった日本移民一世の人たちを、厳しい人々としてではなく、あなたたちのために寡黙なまなざしの中にも深い愛情を持っていた人達だと思って見てください。そして、このお寺というところはそうやって生きて来た日本からの開拓者の思いと、その使命を伝えていくところでもあります。

仏教とは長い時の流れを隅から隅まで見つめていく「尊い眼」を持ちます。だからこそ一世の人たちはのちの人に託すことで心を休めることができます。彼らは明治の教えをその身に宿し侍のように強かったかもしれません。しかし、一人で月を見上げる夜には、胸に抱える寂しさや涙をぐっとこらえていたのかもしれませんね。これからも、すべての世代をつなぐ「ありがとう」を大切にしていきましょう。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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哀愁を超えて:決して途切れない絆


哀愁を超えて:決して途切れない絆

皆さま、明けましておめでとうございます。新しい年を迎え、こうして皆さまと集える時間に、大きな喜びを感じております。私たちは新年の誓いを立て、未来に希望を抱きますが、その心の底には、形にできないもやもやがあるはずです。それは、いつか自分がこの世界から消え、誰の記憶からも失われていくことへの、寂しさです。

ブラジルの埋葬の場を思い浮かべてみてください。私はブラジルに来てからもう何百件もの葬儀の別れの場に立ち会いました。多くの参列者に別れの涙は熱く流されますが、ひとたび儀式が終われば、世界は何事もなかったかのように日常へと戻っていきます。残された人々がそれぞれの生活に順応していく速さを目の当たりにするとき、私たちは「自分がいなくなっても、この世界は一欠片も傷つかないのか」という虚しさを心の底に感じるのです。

この寂しさを埋めるために、私たちは自分の親や先祖を敬う姿を子供たちに見せようとします。自分が先祖を大切にすれば、自分が去った後も子供たちが自分を繋ぎ止めてくれるのではないか。それは、孤独な未来に対する切実な抵抗かもしれません。しかし、人の記憶に頼るだけでは、私たちの不安は根本からは消えません。人間の記憶は脆く、形あるものはいつか必ず色褪せるからです。

そこで浄土真宗が説くのが、「倶会一処」という教えです。これは、死後に仏の世界で再会する教えとよく言われますが、本当の部分ではここにはもっととても深い意味があります。「会うことは、最初から一つ処に倶にあったのだと気づくこと」このように説く方が仏様の本当の真意に適切だと思います。ご先祖さまと私たちは時間に遠く隔てられた存在ではありません。はしごや階段の段の一部のようにどこかを切り離せるものではないのです。私とは現時点でこの世に存在しないご先祖と同じようにまだ生まれてきていない子孫をつなぎとめる大切な「かすがい」であり、亡き人たちと生まれる前からともにあった存在だと気づくことが大切なのです。なので仏様の目線で見れば、亡き人とは過去に去った人ではなく、今も私たちといつでもともにいる「存在」と教えてくださっているのが「倶会一処」なのです。

私たちが法要で手を合わせるとき、亡き人は思い出の対象ではなく、私の「今の一歩」を導く力となります。あなたが亡き人を敬うとは、実はあなたが亡き人に抱かれている。この「一度も離れていなかった」という事実に気づくとき、忘れ去られる恐怖は、温かな救いへと転換されます。たとえ世間がだれかを忘れても、仏様の無限の記憶は、一人ひとりの人生のすべてを、ずっと抱きしめ続けています。そこで、私たちは亡き人と出会い直し、自分自身の本当の居場所を見出すのです。新しい一年、皆さまが一歩一歩を、独りではないという確かな安らぎとともに歩まれますよう、切に願っております。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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