Funeral de
emargencia

仏教についての小さなお話

成道会と鏡餅の伝統


成道会と鏡餅の伝統

こんにちは。今月12月の8日は仏教にとって特別な日です。成道会と呼ばれ仏教の開祖お釈迦さまが悟りを開いた日を記念します。ここから2000年以上続く仏教の全てが始まり、広い地域で多くの人々に受け入れられてきました。そして日本へも伝わり、さらに日本の文化と混ざって進化したのが今日の仏教です。

さて、今日はそんな日本文化の一つを紹介したいと思います。数ある日本の伝統文化はそれぞれ独特の魅力がありますが、その中に正月に丸い餅を二つ重ねて飾る習慣がありそれを「鏡餅」と呼んでいます。新しい年の始まりを祝い、年神様をおもてなしするための供物として家庭に飾られます。1000年以上前の平安時代に始まったと言われる鏡餅ですが、実際にはもっと古い時代から、収穫された米を神々に捧げてきた習慣とも言われています。年神さまとは日本の文化の中で多数いる霊的に高位な存在のうちの一つで新年にやってくる神様のことです。そして新しくやってくる年そのものを「神」として迎え入れるという風習が鏡餅にはあります。

その慣習は先祖から受け継がれた文化とその価値を次世代に伝える大切な手段となっています。ここでは「受け継がれた」と簡単に言っていますが何百年も親から子供へ行為として引き継がれてきたこの文化には日本の全てが詰め込まれています。上下に餅が重なる形は世界の多くの文化で見られる、「天と地」や「親子」という意味を表しています。だから、この鏡餅には単なる食品を超えた、家族の連携と調和を目に見える形として示す役割もあるのです。

鏡餅に乗せられる橙は、「代々」という音の響きとかけて、長寿と家族の繁栄を祈るアイテムです。そして、新年に家族が集う時、鏡餅は中心的な装飾となり、その周りで笑顔と対話が交わされる光景は、日本家庭にとってなくてはならないものです。1月の11日ごろを目処に家族で鏡餅を食べる風習があり「鏡開き」と言われます。この鏡開きをもって正月の特別な期間が終了します。年末に作った鏡餅が賞味期限を迎える時期を考慮して人々は日常の生活に戻っていく区切りの日となっているのです。鏡開きには作法として刃物で切らずに木のハンマーで叩いて割るのが決まりとなっています。刃物で家族の絆が切れないようにとの願いが込められているのです。

今日は日本文化を大切にするというお話をさせて頂きました。私たちのお寺でも12月30日に餅つきをして鏡餅も販売します。皆さんもよろしかったらぜひ家に飾って新しい年を家族みんなで迎えてください。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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報恩講とお念仏の意味


報恩講とお念仏の意味

は「恩に報いる」という意味です。恩とは聖人が私たちに残したものは浄土真宗の教義です。基本的には仏教の教えなのですが仏教にも各種の宗派が存在します。皆さんご存知のように長く続いていた中東での戦火が先月から激化しています。彼らの神は決して戦争を推奨するような教えは説いていません。しかしそれを禁止することも無いようで、時には自らの宗教的信念を守るために戦う必要があるとも説かれており、それも要因の一つとなっているようです。神を「善」とした世界の秩序が説かれている一神教の宗教では、それに相容れぬことを「悪」として時には教えの中でも神の側が武力をもってして悪の事態の是正や排除が行われています。

反面、仏教は歴史上において宗教戦争をしたことがありません。まず、多神教であり他宗教を積極的に取り込んでいった経緯があるからと言われています。また説かれている教えは本質的な「無」であり世界の秩序や常識という一見普遍的な考えからも離れることを目的としているからだと思われます。仏教とはどういった教えなのでしょうか。究極の目的として「悟り」というものがあり、仏陀という言葉には悟った者という意味があります。そしてその悟りの内容はとてもシンプルです。諸行無常・諸法無我・一切皆苦、この三つを理解することが悟りです。ただし、「理解」するとはこれらの表す意味と自分自身を同体とすることを意味します。この世には神や悪魔のような絶対的な善悪の基準はなく、すべての善悪は必ず「誰かにとっての」という概念になります。これらの本質を「無」と表現します。善悪という個人的な判断基準にとらわれることで起こる内面の様々な苦しみからの脱却を目指し、心の平安を得ることを目的としています。これらの事を言葉で理解するのと、自分自身が感じている不安や苦痛さえも「無」であるととらえることには大きな隔たりがあります。そのために正しい理論と実践が経典には説かれています。

さて、大まかに仏教について触れましたが浄土真宗の教義とはどのようなものなのでしょうか?浄土真宗では仏教を大きく二つに分けています。一つは自分の力で悟りの世界へ到達するグループです。このグループには多くの宗派が含まれ、仏教開祖の釈迦牟尼仏が実践したように出家して戒律を遵守し仏の悟りへと向かいます。もう一つは浄土真宗が含まれ、仏によって既に確立されたメソッドにより悟りの世界へ導いてもらうグループです。基本的には出家できない者に対する救済手段として説かれました。

浄土宗の法然上人は何千巻もある仏教経典の中から「念仏」の教えを見出し、出家者だけの教えになっていた仏教の門を、すべての者へ開きました。その弟子である親鸞聖人はその念仏の正当性を誰にでもわかるような解説と共に「教行信証」という書物を書きました。今日、拝読した正信偈もそこに書かれている一部分です。それらの内容は誰にでもわかるように書かれたといってもそれでも難しく、学問として真剣に取り組まなければ理解は難しいです。しかしやる気さえあれば誰でも仏の救いへ通じる教えが残されたからこそ、浄土真宗800年の歴史が築かれたのです。その第一歩である親鸞聖人の功績を恩と感じて精一杯報いていくのが報恩講の持つ意味となっています。どのようにして報いるのか?それはお念仏なのです。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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人生の質と行き先


人生の質と行き先

季節の変わり目は特に体の不調が目立ちます。頭痛、関節痛、発熱、目まい、吐き気、肩こり、湿疹、その他多くの不調を感じる時どうしていますか?頭痛や体の痛みには痛み止めと言ったように症状に応じてそれを抑える薬はたくさん売られていて手軽に入手できます。なので、自分が普段から自覚している症状に関してそれに対応した薬を備えておく必要があります。しかし、お医者さんたちは検査をして原因を取り除くことを推奨するはずです。人生の不安や心配事にも一瞬の誤魔化しではなく、根本的な原因対策が必要と考えるのが仏教の基本的な考え方です。

人の不安には大きく分けて二つあると言えます。健康や経済に関してと人生の質に関してです。まず健康面と経済面の不安は全ての人にとは言えませんが努力でどうにかなる分野です。しかし、人生の質に関してだとどうでしょうか?そもそも人生の質とはなんでしょうか?素晴らしい人達との出会いでしょうか?積み重ねてきた功績でしょうか?様々な考えがあると思います。

ところで子供の頃の1年と大人になってからの1年は同じ長さでしょうか?同じ長さのはずなのに大人になってからの1年の方が短く感じられると言う方が多いと思います。一般的には大人になってからの1年はそれまでの人生の何十分の1なのでだんだん短く感じると言われています。しかし、実際はそうではありません。答えは変化の有無なのです。同じ場所で同じ人たちと同じことをやり続けると言うことは変化のない同じような思い出しか刻まれません。例えば10時間運転してどこかへ行ったとします。後日10時間分の詳細な記憶がある人はどれぐらいいるでしょうか?しかし1日の観光旅行で10時間に色々見て回った場合はほとんどの詳細を覚えている人が多いでしょう。

いつの日か私たち全てのものはその人生の最後の瞬間にそれまでの自分を振り返るでしょう。その時に大事な事が二つあります。その一つ目は「良い人生であった」と振り返る事ができると言う事です。そして二つ目は自分の行き先を決めている事です。この場合の行き先とは仏様の国のことです。皆さんは今日、ここへ仏様と出逢いに来られました。自分の家の宗教が浄土真宗であり先祖供養をお寺ですると言う伝統を受け継いでこられています。しかし、そのことの本当の意味をご存知でしょうか?それは今の命が尽きた後には仏様の世界に生まれていくと言うことを意味します。浄土真宗の教義とはまさに仏の国への往生を願うことなのです。なので、今ここにいる人たちは全員がいつの日か、再び仏様の国で出会うことになるのです。このお寺の教えは「いつかまた会おう」と次の出会いの約束をすることなのです。

今日の話は最初に人生の質についてから始まりました。人生の最後にその人生を振り返った時に、良い思い出がたくさんあるような充実した時間を過ごしつつ、次に自分が「どこへ行くか?」という問いに答えを見出している人生こそが最も「良質」な人生と言えるのではないでしょうか。「阿弥陀仏の世界でまた会いましょう」と言う思いを、私たちは「ナンマンダブ」という言葉で表現するのです。なんまんだぶ。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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お盆:思い出、感謝、そして仏の癒やし


お盆:思い出、感謝、そして仏の癒やし

皆さんこんにちは。今日は日本のお盆法要ということで追悼法要をしました。

「追悼法要」とはこれまでも世界各地で行われてきていると思いますが、今日は仏教での意味をお話ししたいと思います。

私たちが住む世界を表す言葉に宇宙という言葉があります。「宙」という字に広い空間という意味で「そら」と読ませることが多々あります。

しかし二千年近く昔の中国大陸にあった前漢の国の書物『淮南子(えなんじ)』に「往古来今これ宙という、四方上下これ宇という」とあります。つまり空を表すのは「宇」の方だったのです。面白いことに宙の字の方が空間を表しているかのように誤解されることが多くなってきました。誤用も時代と共に正しい言葉となったりもしますが正確な意味も知っておくことは大切でしょう。

現在の日本では私たちが思う「宇宙」とは星々の浮かぶ空間の意が主ですが、遥か昔の人間は私たちが暮らす世界は時間と空間を一体としてとらえていました。少なくとも世界を過去と未来に挟まれた現在という点で切り取られた「今」を中心としては見ずに、過去と未来の通過点としてとらえていました。だからこそ先祖という過去の出発点を大切にし、未来という子孫をつなぐ「家族」というものを大切にしていたのです。私という命は有限で終わりのあるものであるけど、「~家」とは各時代に構成員を変えて存在し続けさらに同一の家なのです。その意味で追悼法要というのは生きているものが死者を祭るだけでなく、世界のあり方に歴史の一員として敬意を表する大切なものでした。

では、まずご存知の方も多いと思いますがお盆の起源にさかのぼりましょう。

当時、目犍連というお釈迦様の弟子がいました。時空を見通す特殊能力の持ち主でしたが悟りの世界(=真理)を見れなかったために仏弟子となった者です。

彼がある時亡くなった母を探し求めると餓鬼の世界という餓えと欲望にとらわれ永遠に満足することができない世界で苦しんでいる姿が見えました。

それを嘆いた目犍連は母が餓鬼界にいる理由と救済方法をお釈迦様へたずねました。お釈迦様はあなたの母が餓鬼界にいるのは生前に子供であるあなたを心配するあまり執拗に食べ物を集めすぎたことが原因だといわれました。物の少ない時代に誰かが過剰に食物を確保することは他者の分まで独占してしまうことを意味します。本来平等に分けなければならないという調和を著しく乱したことになります。

救済方法としては母に心配されたあなたが食物を他者へ寄付することだと言われました。財物にとらわれずに他者と分け合うことが過度な物欲をもたずに生きる方法であることを説かれています。その功徳によって母は成仏できたと伝えられています。

本来は独占や物欲を戒める説話だったのですが、亡くなった母に対する子供の追悼の思いからいつしか死者の供養に関する習慣になりました。

日本語において「追悼」という言葉には、誰かの死にあたってその方の生前の姿を振り返りながらその死を悲しむこと、という意味が一般的です。その主な内容には「死んだ人を憐れむ気持ち」が強いと思います。しかし命の有る人と無い人という区切りを設けて命の無い側を一歩的に可哀そうな人と決めつけてしまうのは少し乱暴なことではないでしょうか?

もちろん私たち生きる者にとって命ほど大切なものはなく生きているに越したことはないというのも重要な事実です。だからと言って生きてさえいれば幸せであるかといえばそれも答えは難しいでしょう。先月の仏教青年会大会での講師の僧侶と参加者の青年たちの対話の中では「よりよく生きるために仏教から何が得られるのか?」といったことが多く話題にのぼったそうです。

未来ある青年ならではの疑問だと思いますが生きているということにも悩みや苦しみは多く付きまといます。それこそ時には死んでしまいたくなる時というものも人生には存在し、残念なことに自ら命を絶ってしまうといったことも数ある死因の中では決して少なくありません。

私たちが行う追悼という行為には「可哀そうと思う心」を切り離すことは難しいと思います。しかし私たちが感じる「可哀そうと思う心」の真実に私たちはしっかり向き合う必要があると思います。可哀そうと思う心の向けられている先にあるものは、失われた命ではなく大切な人を失った「私自身が感じる寂しさ」なのです。つまり、可哀そうなのは「悲しさを感じている」私ということになります。

悲しみの大きさはそのまま頂いた幸せの量でもあり、追悼の心はそのまま感謝の心になっていきます。追悼とは亡くなった人を憐れみ手を差し伸べながらも、胸に思い描く故人の生前の姿に私たちが慰められ癒されることを言います。目連の話に見るように亡くなった母を思うことで自らの癒しとすることにほかなりません。「死してなお人を癒す者」を私たちは仏と呼びます。追悼とは仏の癒しをわが身に頂く日であります。人生の出会いやすべての存在そのものへの深い感謝の心をもちながら生きていくことは仏様と共に歩むことを意味します。より良い人生への指針となります。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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人間に生まれること、人間らしく生きること


人間に生まれること、人間らしく生きること

みなさんこんにちは。本日はお寺がこの場所で新しく歩みを始めたことを記念する法要です。ですので今日は人間として生まれてきたことについて新しく振り返るお話をしてみようと思います。

私たちの命は知らない間にこの世に生まれました。「人間に生まれたい」と思って、生まれた人はいないとおもいます。体が先にあって、性格とか知識とかいうものは、あとからその体に入っていきます。もっと専門的に言うと人の能力と性格は遺伝子によって30%ほど決まるそうです。残りの70%はその後の環境と関わりによって形成されていくそうです。それが教育であったり、生活環境であるというわけです。

それがよくわかるのが動物に育てられた子供の話です。昔インドでオオカミに育てられた少年が発見されました。この少年は、産まれてすぐに、メス・オオカミによって連れ去られ、大きくなるまでオオカミによって育てられました。この少年は、人間社会へ連れ戻されたが、四本足で歩き、オオカミの吠え声で話をするやり方を変えることはできなかったそうです。つまり、遺伝子は人間だけど、70%の部分に「オオカミの習性」というものがはいってしまったということです。逆に生まれた時から人間に育てられた犬が、人間のように2本足で歩いて、言葉を使うということは聞いたことがありません。

人というのは、育てられ方によって、人間にもなればオオカミにもなるということです。人間とは人の間と書きます。間というのは関係を表す漢字です。つまり人として生まれ、他との関係があって初めて人間となるということでしょう。

ではその人間として生きていくとはどういうことなのでしょうか。こんな言葉があります。「犬が犬らしくないことをやることはほとんどないが、人間はよく人間らしくないことをやる。甘いものを見つけた蟻は必ず巣に持ち帰るが、人間はこっそりひとりで食べようとする。」

感心させられると同時に考えさせられる言葉です。人間らしいとはどういうことでしょうか。たとえばご飯のときに、皿をなめると、犬みたいだと怒られます。ではお箸を使って、またナイフやフォークを使って食べることが人間らしいということでしょうか?でも世界には、手だけを使って食べる国もたくさんあります。「甘いものを見つけたときに一人でこっそりと食べる姿」これがもしかしたら一番人間らしい姿なのかもしれません。欲望に正直に、自分中心に生きている姿であります。でも私たちはそれが人間らしいとは言いません。そういう人のことを「ずるい」といいます。私たちが人間らしく生きるという言うときに感じるのは『恥』というものを知っているかどうかではないでしょうか。

人間の本質を言えば、自分中心に、自分の欲望を満たしたい、自分だけが良かったら良いという気持ちを持っているものだと思います。ですがそれと同時に、欲望のままに生きるのは恥ずかしいことだというのも知っています。だから欲望を抑えて、他人のことも考えて生きる姿を「人間らしい」と感じるのではないでしょうか。仏教ではその恥ずかしいということを「慚愧」といいます。親鸞聖人は、「慚愧」について3つに分けて説かれました。一つには自ら罪を作らないことと他人に罪を作らせないこと。二つには自分自身を恥ず心を持ち、他人に対してそれをあらわすこと。三つには世間に対して、そして仏様に対し恥ずかしいという心。この慚愧のこころあるものを「人」といわれ、慚愧の心ないものは「畜生」といわれました。つまり、自分に対し、他人に対し、仏に対して「恥ずかしい」と思う心をもって初めて「人間」だと言われるのです。そしてそうした心を持つ人こそが「人間」を育てることができるのでしょう。ですが、私たちが頑張って自分の力でなれるのは、「人間」までです。

「人に育てられ 人になり、 仏に願われて 仏になる」という言葉があります。私たちの命は、阿弥陀様に「仏になってください」と願われている命であります。そして阿弥陀様は、その願い、働き、功徳すべてを「南無阿弥陀仏」のお念仏に込めて私に届けてくださいました。仏法を聞くということは、阿弥陀様に育てられているということです。手を合わせるということは、自分の姿を、振りかえられる場所があるということです。人間というのは、他人の前ではなかなか自分自身を振り返ることができません。夫婦喧嘩なんかが良い例えだと思います。喧嘩をしながら悪いとは思っていてもなかなか素直に謝れないのが人間です。でもそんな私たちも、なぜだかわかりませんが、仏様の前に座った時は、素直に自分のことを反省することができます。自分の姿がよく見えてきます。相手のせいにしている自分がよく見えてきます。生活の中に、仏様に手を合わせるという時間をもつことは、自己をかえりみる時間を持つということでもあります。自己をかえりみるということは、ただ反省するだけではありません。よかったことも、わるかったことも、嬉しいことも、悲しいこともすべてをふりかえるということです。

なかなか、仕事・勉強・遊びに忙しい毎日ですが、時間を作って仏様に手を合わす日暮らしをしましょう。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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2023年6月 - 錦鯉の教え:私の善意と影


2023年6月 - 錦鯉の教え:私の善意と影

みなさんこんにちは。まずはブラジル日本人移民115周年追悼法要にあたり追悼の挨拶をいたします。

本日この移民追悼法要:「ブラジルへ移住した日本人を偲ぶ会」に出席された皆様。私たちは勇気と決断力をもって遠い祖国を離れ、この国で新しい生活を築こうと未知の世界へ挑み努力された人々へ謹んで追悼するものであります。私たちは、彼らの功績を学び後世へ伝え続けることによって、先人たちに敬意を表します。彼らが私たちの心に残した「謙虚、忍耐、勤勉、協調性」といった種を育て、次世代のために明るい未来を築くことができますように。私たちは深く感謝します。

それでは浄土真宗のみ教えのお話をしていきたいと思います。

今日はこちらは浄土真宗本願寺派の前勧学寮頭の徳永先生のお話を紹介させて頂きます。勧学寮とはご門主の書かれる書物の内容が教義的に正しいか等を判断する機関で、宗派内の宗教的な研究機関で最も権威のある方たちの集まりです。

勧学の先生の話と言うととても難しいと思う人もいるかも知れませんが、徳永先生のお話はいつもとても優しくわかりやすく素晴らしい内容です。では、さっそく紹介しましょう。この話はその徳永先生のお宅での出来事です。

京都の批宅の庭に池があり、そこにニ十尾ほどの錦鯉がおります。毎年初夏のころ、鯉たちはたくさんの卵を産みますが、たいていは卵のうちか稚魚のうちに他の鯉たちに食べられてしまい、秋になって池の草の陰や岩の陰から顔を覗かせるのはほんの二・三尾にすぎません。何百あるいは何千と生まれたに違いない卵や稚魚のほとんどが食べられてしまうなんて、あまりにも可哀そうだと誰でも思うでしょう。

そこで、今年は卵の産みつけられた棕櫚の皮ごとすくいとって、別の水槽に移してやったのです。余計なことをして、環境の変化のせいで全滅しはしないかとびくびくしながらそうしたのでした。ところが、何日か経ったある夜、懐中電灯で照らして水槽を覗き込んだ私は仰天してしまいました。全滅するどころか、なんと何百とも知れないニミリほどの稚魚たちがうじゃうじゃと孵化していたのです。自然の育む命の不思議さに茫然とする思いでした。

しばらくすると稚魚たちは成長して、その水槽では狭すぎるほどになりましたが、まだ元の池に放すわけにはいきません。たちまち成魚たちに食べられてしまうでしょう。そこで、大きなプラスチックの池に放してやりました。ついニ・三日前のことです。稚魚たちにも生存能力の強弱があるらしく、大小さまざまの成長過程を見せていますが、今のところみんな元気に泳いでおります。

私がここで申し上げたいのは、放っておけば他の鯉たちに食べられて消えてしまう何百という稚魚たちの命を救ったということではありません。今の私の思いはむしろそれとは逆のことであって、余計なことをしてしまったのではないかということなのです。つまり、もしも私がこれらの稚魚たちが他の成魚たちに食べられないほどにまで成長するのを待って、元の池に戻してやるとすれば、何百という新入りの鯉たちのために、池の生態系はたちまち破壊されてしまうでしょう。今のニ十尾ほどの鯉たちに加えて何百尾もの鯉を移せば、おそらく元からいた鯉たちともども全滅してしまうでしょう。

放っておけば消えてしまうに違いない何百の稚魚の命を救ったつもりになっていた私の善意は、ここにきてたちまち破綻をきたすことになってしまったのです。よかれと思ってしたはずの私の行為は、自然の法則からすればあまっちょろいヒューマニズムにすぎなかったのかもしれません。

要するに、稚魚たちに対して私が抱いた愛情はほんの一面的なものであってそこに影が伴うということに気がつかなかったということです。私の庭の池にも自然の法則がはたらいていて、私の行為はいかに善意から出たものであるにせよ、その自然の法則を無視するものだったのです。

このような経験から、不可思議の本願のはたらきに自分の思いを上乗せしてそこに救いを予想している私どもの浅薄な計算が無効であることを示してくださった親鸞聖人の真意がうかがわれたのです。

こんな自分に救いが得られるはずがないとか、これだけ聴聞し念仏したのだから往生は大丈夫だろうとか、自分勝手な計算に救いを予定していても、そこには必ず影が伴っていることを聖人はいましめてくださったのだと思います。得になるとか損になるとかというような私の思いをすべて超えて、本願の大悲は影のない、つまり計算のない光明をもって、この私に届いているということでありましょう。

私たちがどんなに良いことだと思って行動しても、それが「必ずしも全ての面から見て良い事とは言えない」ことを、先生の体験をもとにお話ししてくださいました。物事を偏った視点から見るのではなく、あらゆる面から冷静に物事を見つめてその本質を理解するというのが仏教の根本思想です。そのために開祖お釈迦様はたくさんのお経に教えを残されました。その中で浄土真宗という私たちのお寺が属する宗派では、宗祖親鸞聖人の生き方を通して物事の本質を理解することを大切にしています。そこには「因果の道理」というものがあり「結果には必ず原因がある」ということを冷静に見つめます。

つまり、根拠のない祈祷や占いを頼りとしません。また、自らの都合や不都合を神や精霊の責任に押し付けません。それらに基づいてあるがままの世界のあり様に寄り添って生きていくのが浄土真宗の精神であり、みなさんのご先祖様が代々受け継ぎながらこの南米の地へ携えてきた「門徒の誇り」なのです。このお話を一緒に頂くことで現代社会に生きる私たちも色々考えさせるきっかけになればと思います。

それにしてもこのお話に出てくる鯉たちはどうなったのでしょうか?ある時徳永先生に直接お会いさせて頂いた時に、「何か質問はありますか?」と言われたので講義内容とは関係なかったのですが質問させて頂きました。

夜中に市内の鴨川と言う大きな川に放流されたそうです。いい事なのか悪い事なのかはわかりませんが。。もし悪いことだったら、浄土真宗の高僧により京都の生態系に影響が与えられたことになり宗派の沽券に関わることなので、ぜひとも秘密にしておいてください。以上で法話を終わりとします。

釋 穣信 (Josuke Inoue)

浄土真宗本願寺派南米開教区開教使 (Misionário)

モジダスクルーゼス本願寺主管

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